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旅・つれづれなるままに

細矢 隆男

第28回 「義仲寺」木曽義仲をとりまく芭蕉、芥川龍之介の謎 (2回連載のその1)


義仲寺

 皆さん良くご存じの作家・芥川龍之介は生前、平安末期の武将・木曽義仲(きそよしなか・1154年~1184年・31歳)を学生時代から、あたかも恋人のように慕い続けたといいます。龍之介が意外ですね。それはなぜなのでしょうか?芥川本人はすでに亡くなっているのですが、彼には学生時代に執筆した3万字にのぼる「木曽義仲論」がありますから、そのあたりも参考に真相を探ってみましょう。


木曽義仲の墓

 更に誰もが日本一の俳人と認める松尾芭蕉、私も彼のファンの一人ですが、芭蕉も義仲を慕い、彼はなんと義仲の墓の隣に埋葬されることを望み、事実義仲の隣に葬られたほど義仲に惚れ込んでいました。更に木曽義仲といいますと側室、あるいは部下の武将ともいうべき「巴御前」が有名で、義仲亡き後も彼の墓を守り続けたといいます。


巴御前を祀った地蔵堂

 このように日本一の俳人、誰もがすばらしい俳句と認め敬愛する松尾芭蕉が、さらに近世の知性派を代表する鋭い短編小説の名手芥川龍之介にも愛され、巴御前にも愛され、男女ともに超一級の人物たちに木曽義仲は慕われ、愛された彼の魅力とはいったい何なのか❓️今回は二回にわたり、探ってみまたいと思います。

 しかし、今回の対象なる人物は平安後期と大変古い歴史に埋もれており、現在に至り解明し難いところがありますが、私の心のどこかに引っかかっていたその謎を考えて、改めて迫ってみたいというのが今回大津市内の「義仲寺」を再訪した大きな理由といえます。


義仲寺境内の木曽八幡社

 琵琶湖の大津市内、JR膳所(ぜぜ)駅・京阪電鉄膳所駅の北約300mにある「義仲寺(ぎちゅうじ)」を訪ねます。

 平家の支配が絶頂期を過ぎた平安時代末期、木曽義仲は以仁王(もちひとおう・平安時代末期の皇族。後白河天皇の第三皇子)の令旨により平家追伐を行い、それが成果を上げて将軍として上洛する事になりました。

 しかし一説によると、木曽義仲には京都での粗暴な振る舞いがあったと言われますが、義仲の生真面目さから考えればそれはあり得ず、むしろ大軍ゆえの食糧不足に苦慮した挙げ句に兵の一部が略奪行為に及んだ可能性はあります。後白河上皇はその事を義仲を糾弾する材料に大袈裟に利用したのかもしれません。さらに困ったかどうかは分かりませんが、後白河法皇は政治を思うままにした平家を痛め付けて目的を達したことから木曽義仲を体よく都から出て行ってもらうため、彼にさらなる平家討伐の宣旨を出したと考えられます。

 後白河法王の処世術は、利用できそうな相手がいたら手なづけて徹底的に利用し尽くして、相手が勢いつき、自分を越えそうになったら、何らかの手、謀略とも言える手を打って、これを滅ぼすことで地位と権力を保つ、これが彼独特の処世術の特徴です。平清盛政権確立の中で培われた彼のしたたかな処世術、延命術といえます。


富山県小矢部市「護国八幡宮」の義仲の勇壮な騎馬像

 ここでは義仲に平家討伐の宣旨を出す一方で、裏で源頼朝に上洛を促し、その上で木曽義仲討伐命令を出す。なかなかの策士、古だぬき振りです。頼朝が義仲を良く思っていないことを見抜いての秘策でした。

 ために後白河法王を信じた木曽義仲と、法王とは一線を画す源頼朝は義仲とは親戚同士にもかかわらず、ライバルとして覇権をめぐり衝突する事になり、主戦場が大津市の粟津になりました。この戦いで木曽義仲が運悪く顔面に矢を受け、壮絶な戦死を遂げました。

 そうした危険性を避けるために、戦国時代には甲冑に付随して、より実戦的な「面頬」が発達しました。


面頬(備前長船刀剣博物館蔵)

 木曽義仲が戦死し、首は鴨川に晒されましたが、ある程度の年数が経った時、1人の尼がやってきて、主戦場粟津近くの埋葬地に墓石を作り、そして日々供養したといいます。

 周辺住民は尼に対して名前を聞こうとしても「私は名も無き女性です」としか答えなかったようです。その伝説の女性こそ、木曽義仲の側室・巴御前と思われます。巴御前が建てた草庵をそれ故に「無名庵」と呼ぶようになったといわれます。


巴御前の供養石

 義仲寺はそうした縁者や彼を慕う人たちにより、守られてきました。室町時代末期には近江守護・佐々木六角が整備、新規建立したといわれています。

 この寺の創建については不明な点が多いのですが、先に述べた愛妾の巴御前が、埋葬された義仲の墓所近くに草庵を結び、日々供養したことにはじまるとも伝えています。寺は別名、巴寺、無名庵、木曽塚、木曽寺、また義仲寺と呼ばれたという記述が、すでに鎌倉時代後期の古文書にみられるという研究もありますから、その信憑性は確かでしょう。その後、幾星霜を重ね戦国時代に荒廃しましたが、天文22年(1553年)頃、近江守護の六角義賢によって再興されました。また、この頃は石山寺の寺領域となっていました。

 江戸時代になり再び荒れていたところ、貞享年間(1684年 ~1688年)に浄土宗の僧である松寿が義仲の塚の上に新たに宝篋印塔を建立し、それが現在の墓とされるようです。元禄5年(1692年)には寺名を「義仲寺」に改められました。


芭蕉の墓

 俳人松尾芭蕉は義仲ゆかりのこの寺と湖南の人びと、景観を愛し、たびたび滞在したようです。無名庵で句会も盛んに行われました。彼の最期は、大坂の南御堂の門前、南久太郎町6丁目の花屋仁左衛門の貸座敷に移り、門人たちの看病を受けながら亡くなります。

有名な絶句

旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る

を詠み亡くなった芭蕉ですが、遺言にあった「骸(から)は木曽塚に送るべし」との遺志により元禄7年(1694年)10月、弟子により木曽義仲の墓の右横に葬られました。

 以後、当寺は蕉門俳諧の人々によって護持されていくようになりました。それも義仲の愛された人柄ゆえのことですね。

 さらに何回かの危機を経て明和6年(1769年)、京都の俳僧蝶夢法師が数十年の歳月をかけて中興し、寛政5年(1793年)には盛大に芭蕉百回忌が行われたほどでした。

 昭和期、太平洋戦争後に再び荒廃壊滅の危機に瀕します。しかし、篤志家による寄進によって境内地を買い取り、整備費も志のある方々の寄進によること数度、再建に力を尽くした三浦義一と文芸評論家保田與重郎の墓所も奥にあります。


義仲寺保存に功績のあった2人の墓・(右)保田與重郎氏 (左)三浦義一氏

 江戸時代中期までは木曽義仲を葬ったという小さな塚でしたが、芭蕉が葬られますと、境内には、芭蕉の辞世の句とされる「旅に病で 夢は枯野を かけめぐる」など、数多くの句碑が立ち並び、多くの俳人が訪れ、本堂の朝日堂(ちょうじつどう)・翁堂(おきなどう)・巴御前ゆかりの無名庵(むみょうあん)・文庫などが立ち、境内全域が国の史跡に指定されるようになりました。

これが「義仲寺」の概略です。次回に先に上げた、謎にどこまで迫れるか、お楽しみに。(次回に続く)


義仲寺

所在地
大津市馬場1-5-12
公共交通機関としてはJR琵琶湖線 「膳所(ぜぜ)駅」 下車 徒歩 約10分
京阪電鉄・石山坂本線 「京阪膳所」 下車 徒歩約 10分
車では名神大津ICから約5分 駐車場なしのため、要注意。(※周辺の公・民の駐車場利用)

拝観料・大人300円、中学生150円、小学生100円
営業時間・3月から10月:9:00から17:00 11月から2月:9:00から16:00
定休日 月曜日
お問い合わせ・義仲寺
TEL・077-523-2811

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