文化講座
第56回 奈良 海龍王寺・国宝小五重塔

「国宝・小五重塔」(奈良・天平時代)
梅雨の長雨の間をぬって、平城京の東隅にあります「海龍王寺」に来ました。経典に「海龍王経」があり、遣唐使船の往来の安全を祈念するための寺という説もありますが、私はそうではないと考えます。藤原不比等が個人の宅地にて「遣唐使」の安全を祈る必要は無いからです。不比等の住まいですから、かつては光明皇后の実家である法華寺と同じ邸宅内にありました。父藤原不比等や光明子(後の光明皇后)の邸宅跡です。それ以前、この辺りは土師氏の所有する土地でしたが、屋敷を広げるために不比等が購入したようです。

現在の海龍王寺正面正門
実はこの「海龍王寺」という名前が不思議です。「海龍王寺」の龍は海を支配する空想上の動物です。中国の歴代皇帝は、デザイン化した「龍」を胸に大きく描いた天子の着物「龍袍(りゅうほう)」を着ていました。すなはち「龍」は中国皇帝のシンボルなのです。
私がなぜ今回、この平城京の小さな「海龍王寺」を選んだかといいますと、このまさに「海龍王」という字に大きな興味があるからなのです。

寺の中に咲いていた「あじさい」
この寺を建てたのは「大化改新」の立役者の藤原鎌足の息子とされる藤原不比等です。鎌足は百済系王子の中大兄皇子を助けた人物で、やはり百済系で、大化改新のあと鎌足はその功績から、孝徳天皇、中大兄皇子、大海人皇子のそれぞれから妃を下賜されており、それが権力者と臣下が共に信頼関係を築く、大陸の互いの身の保全方法であったと推測されます。なぜかというと、天皇や王子が家臣に「妃」を下賜するのは、その「妃」に子供が出来たからです。仮に「妃」に男の子が生まれたりしますと、跡取りの問題が生じ、厄介なことになります。「皇后」すなはち「正妻」側との関係がまずくなり、正妻側はその子と母である「妃」を殺そうとして「大事件」に発展する可能性があります。ですから、そうした可能性を無くすために、后に知られないように、すぐ有力家臣に下げ渡すのです。下げ渡された家臣は、主の弱味を握ったも同然であり、その子を大切に育てれば、ある意味「姻戚関係」を取り結ぶことになり、それはお互いに結束を強め、「身」の安全となり、「味方同士」となります。鎌足はさらに天皇クラスの、憧れの美人「妃」を何人も妻に出来たという余得もあり、万葉集に悦びの歌が載るほど、大変喜んでいます。

本堂全景
今回、藤原不比等を考えますと、不比等は、大海人皇子(後の天武天皇)が鎌足に身籠った妃の鏡王女(かがみのひめみこ)を下賜した結果、生まれた大海人の子であることは確かです。不比等は大海人(天武天皇)のDNAを引き継ぐ息子ですから、彼のずば抜けた度胸と知恵、勇気、才能は合点が行きます。また顔も天武天皇に似ていたことでしょう。鎌足は不比等に自分の本来の姓「中臣」ではなく「藤原」という新しい名を名乗らせたことにも、それははっきり表れていると思います。自分の息子であるなら「中臣」を名乗らせるし、「不比等」などという、たいそうな名前を付ける訳がありません。身分の高い貴人に仕える男が、等しく比べる者無き人、という意味の名前を自分の息子に付けるはずもありません。大海人の、後の天武天皇の子だからこその名前であり、比べる者の無い大海人の御子だと、ある意味公言しているようなものです。大海人への最大の「忠誠」、「敬意」、早く言えば「おもねり、ゴマすり」といえるもので、なかなか鎌足はしたたか者ですが、しかしこのように、中大兄からそのライバル大海人に傾倒していったため、鎌足は猜疑心の強い「天智天皇」により、後に自害に追い込まれる運命が待っています。古代史のミステリーです。しかし藤原不比等が天武天皇の「子」であると考えた方が、日本の歴史が大変明解になります。不比等は「古事記」「日本書紀」の編さんを太安万侶にさせます。稗田阿礼(ひえだのあれ)は藤原不比等のペンネームです。稗田阿礼なんていませんし、墓もありません。太安麻呂は実在して、その墓も墓碑銘を伴い発掘調査されて確認されてますから、その安万侶に命じて、両著作にて「天皇制」の礎を築いたことになりますし、不比等の娘、宮子は文武天皇との間に聖武天皇を生みますし、また娘の光明子はその聖武天皇の后になりますが、光明子立后に反対した天智天皇の孫の長屋王の屋敷を、天武天皇の息子の舎人親王に、天皇を呪詛したという嫌疑をかけて、屋敷を囲ませて、長屋王一族を自害に追い込みます。理路整然とした利害関係が覗えます。このように、藤原氏に対する反対勢力は滅亡してゆき、天武天皇の血を継承する聖武天皇の権力はますます強大になり、それを支える藤原氏の権勢は、その後の「平安時代」に、有名な宮殿文学としての頂点である紫式部の「源氏物語」の成立を迎え、藤原道長の時代に、天皇を越えた頂点を迎えます。
道長は詠みます。
この世をば わが世とぞおもう 望月の
かけたることも なしとおもえば
道長
ここが藤原氏の「頂点」となりました。

昔日を思わせる、古き「築地塀」
さて、天武に戻りますが、天武天皇は自分の祖先は後漢の高祖の血筋を引くと考えていたようで、赤を軍旗とし、龍をシンボルとして、自分は龍の子、漢王という中国皇帝の天子の血をひいているという意識が強かったことは述べました。その「血」を継承する藤原不比等、まさに「海龍王」の血をひく龍王にふさわしい人物になったという訳です。
「海龍王寺」の海という字は、大海人皇子の「海」に由来します。まさに「天武天皇」の寺「海龍王寺」であり、自分不比等は「天武天皇」の「後継者」であると宣言したような寺の名前ということになります。もちろん、顔も似てたことでしょう。遣唐使を守る「海龍王経」の意味や、遣唐使の玄昉も関係した可能性もありますが、皇后宮子は聖武を生んで以来数十年鬱病になっていました。その宮子を治した玄昉は、彼女と不祥事を起こしたため太宰府に左遷され、抹殺されたようで、ある意味藤原氏に仇をなした人物であり、その首が東大寺近くに飛んで来て落ちたといわれ、日本のピラミッドとされる「頭塔」に祀られたとされます。「安史の乱」から唐は衰退し、遣唐使もかつてほどの重要性がなくなり、衰退していきましたから、遣唐使の安全を守ることより、天武天皇の若き日の名前、大海人の「海」と、彼のシンボル「龍」を自分の寺の名前にしたことの方が不比等と藤原氏にはふさわしく、正しい解釈だと思います。

西金堂に残る「国宝・小五重塔」
この「海龍王寺」の宝が「国宝・小五重塔」となります。高さ410センチ、4.1メートルの作品で天平時代制作の塔ですが、よく、このような精巧な木の作品が残ったと驚嘆します。実際の「小五重塔」の建築のためのモデルとして創られた可能性もありますが、私は両金堂に東西小五重塔として置かれ、本堂と「藤原氏」を荘厳したのだとおもいます。東金堂と塔は運命を共にして、今は無く、現在は西金堂と塔が存在します。不比等の実力からすれば実際の「五重塔」を創ることはできましたが、それはある意味天皇の専権事項であり、権力のシンボルでもある故に、両金堂の中に入る小さな「小五重塔」にした可能性があります。大変精巧な小五重塔で、素晴らしいです。色彩も美しく風化して、えも言われぬ天平古美術の美しさを醸し出しています。是非皆さんにご覧頂きたい作品です。またさらに古代史にご興味をもたれた方には、この連載のバックナンバーに書きました「大和三山・天香久山、耳成山・畝傍山」の連載、特に「天香久山1から3回」を是非お読みください。これまでの歴史と違い、大変興味深く、面白く読んでいただけると思います。

境内の美しく手入れされた、目出度い「這い松」
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