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旅・つれづれなるままに

細矢 隆男

第38回 柳生の里へ (般若寺・円成寺を経て)


薬師寺の日の出

 新年、明けましておめでとうございます。本年も楽しく、みなさんが旅をしたくなるような、楽しい旅情報を心がけたいと思います。


般若寺と十三重石塔

藤原頼長供養塔(頼長は平安時代の政治家。関白藤原忠実の次男。俊才の誉れ高かったが、「保元の乱」の首謀者とされ、悲運の死をとげた。般若寺の南に埋葬されたという。)

 今回は新年にふさわしく、奈良から歴史ある般若寺にお参りしながら、そこにあるコスモスや十三重の石塔と、その中から発見されたという金銅仏、私は天平時代の様式になると観ています秘仏薬師如来像で有名な古寺、般若寺を経て、さらに足をのばして、若き運慶作のみずみずしく、美しい国宝大日如来があることで有名な円成寺(忍辱山)経由の柳生街道を参ります。

 円成寺には、仏像史上に名をなした平安後期の若き運慶(生年月日:1150年頃、死亡日:1223年 推定73歳)による国宝大日如来坐像があり、運慶としては最も初期の、そしてその制作時期が立証された、美術史的に最も貴重な作品があります。彼が1175年に大日如来の制作を開始し、翌年に完成させたという台座の記録の碑文があります。まさに仏像好きな方々にはたまらない名仏といえるでしょう。

 私はこの大日如来様が、まだ新しい建物に入られるまえの宝塔の中におられた時に、初めて参拝させていただきました。合わせて過去に六回こちらをお参りさせていただきました。それほどこちらの仏様は私にとりまして素晴らしいということです。


国宝・運慶作大日如来坐像

 また池に面した美しい浄土式庭園がありますから、是非拝観して行ってください。美しい浄土式庭園の鯉たちが出迎えてくれます。また境内には一休みできて、おいしい食事もいただける茶店、忍辱山・里食堂もあり、皆さんからの評価も高く、美味しいお店です。


お昼ごはんに最適、天ぷらそば。

 これから参ります柳生の里には食堂が少ないですから、こちらで腹ごしらえされて行くのも良いでしょう。私は昼食に天ぷらそばをいただいて、柳生の帰りにも夕食をこちらで済ませた、ということもありました。

 柳生の里は山間の思ったより閑散とした、昔をそのまま残す静かでのどかというべきところで、広い山里という感じです。観光地としての繁華街のような場所はありませんが、私はやはり剣に生きた「柳生一族の里」として、昔をそのままの素朴な姿を現代まで残すこの山里の希少性を大切にしたいと思います。

 さて、新陰流を遡りますと、戦国時代の剣豪、塚原卜伝(つかはらぼくでん)を師とする上泉伊勢守信綱が始祖であり、その教えを受け、筒井氏、松永初代に仕えた後、柳生一族を繁栄に導いた柳生石舟斎宗厳(むねよし)が家康と出会い、テレビドラマで有名になったその子、柳生宗矩(むねのり)から徳川家に仕えたとされます。その私生児である烈堂、さらに十兵衛などが続きます。烈堂は義仙といい、仏門に入れられたようですが、奔放な性格で、謎の多い人物とされ、いまだその人生は確定していませんが、やはり剣術に熱中したのではないかと思います。

 下の有料駐車場横の坂道を登ると、途中から左に800メートル登ると「一刀石」のある道に出合います。ここは初代宗厳が修行中に天狗と試合を行い、一刀のもとに天狗を切り捨てたところ、2つに割れた巨石が残っていたという逸話があります。

 さらに左に歩きますと一族の墓地のある芳徳寺山門が正面に現れます。階段を上り、門を入って本堂を左に沿ってしばらく下り坂を歩きますと、歴代住職の墓地が左手にあり、そこに剣豪であったかどうかは不明な「烈堂和尚」の墓が初代住職としてあります。更に下りますと塀に囲まれた歴代柳生一族の墓地があり、古い墓石がたくさん並んでます。誰がどの墓か、丁寧な案内掲示板がありますから、分かりやすいです。


柳生一族の墓地

案内掲示板

 柳生一族の役割は、徳川将軍家剣術指南役と側近としての警護、相談役などですが、世に「裏柳生」があるとかないとか、取り沙汰されますが、幕府に都合が悪い大名や反抗分子がいる場合は暗殺や謀殺も行ったであろうことは推測されます。幕府安泰のためのそうした「裏」仕事も柳生一族のなすべきことであったであろうことは十分考えられます。


一番立派な柳生宗矩の墓

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