文化講座
第44回 野崎観音(大東市・慈眼寺)を歩く

野崎観音菩薩信仰の寺・慈眼寺(通称野崎観音)。
私事を書かせていただきますが、私の父は戦後、大手教育出版社に勤務し、雑誌の編集長をしたり、後に役員をしてまして、私は常に忙しい父の背中を見て育ちました。そんな父は読書、「歌」が好きで、たまたまの休みの時は私とキャッチボールするか、レコードを聴くか、部屋にこもり読書をしていました。特に父は「学徒出陣」で戦地に赴いたため、学業半ばで「卒業式」すらなく、短く終わった大学生活に後ろ髪を引かれていたようで、「卒業」しても、後輩たちの入学式や卒業式には父兄をよそおい、参加して校歌や応援歌などを唱和して懐かしんでいたようです。
さらに歌謡曲はいつも聴いてましたから、私は「門前の小僧習わぬ経を覚える」の譬え通り、私の方が早くリズムや歌詞を覚えてしまいました。更に母の弟たち、すなはち私の叔父たちが小遣いはたいて買っていたクラシックレコードを一緒に聴いていて、私も小学三年生あたりからベートーベンやモーツァルト、シューベルトの交響曲やピアノ協奏曲を名指揮者であるフルトヴェングラーやトスカニーニ、ワルターなどにより聴くことができました。

野崎観音の階段を昇る。やがて視界が開け、街が見える高台にでる。
これは幸いなことでした。そんな環境も幸いして、音楽、特に歌が好きになり、小学三年の音楽の先生から私は声が良いと誉められ、小学校の「合唱団」に入ることを勧められ、グループで東京都の大会にも出ましたが、名門「上高田小学校」にはかなわず、二位に甘んじてました。
しかし父の好きな島崎藤村作詞、小林旭の歌による「惜別の唄」や三橋美智也の「古城」は子供ながら好きな歌で覚えてしまいました。大学時代に野球で早慶戦で勝ったりしますと新宿歌舞伎町に友人たちと繰り出し、ゴールデン街あたりの安い飲み屋でさわいで歌ったりしました。今のように「カラオケ」の無い時代でしたから、流しのギターの伴奏がいて、父の好きな小林旭の「惜別の唄」を歌いましたら、その流しのギター弾きから「あんた、若いのに渋い歌、上手いね」と誉められたことを覚えてます。あの唄は節回しが難しいのですが、父がレコードをいつも聞いてましたから、私の頭の中で小林旭が歌ってまして、それに合わせて歌えば良い訳で、完全に覚えてしまったようでした。今でも好きな「カラオケ」の持ち唄なんです。そんな父が好んだ曲のひとつに、当時人気の「直立不動」の歌手、東海林太郎が唄う「野崎小唄」がありました。

突然視界が開けて、爽快な気持ちになりました。
行基菩薩によって約1300年前の天平勝宝年間に開山され、古くから北河内(大東市・四条畷市・守口市・枚方市・寝屋川市・門真市・交野市・大阪市鶴見区)をはじめとする多くの大阪人の信仰を集めてきました。ご本尊は香木としても有名な白檀の一木彫りで約130cm、一匹の龍が取り巻く台座の上に立っておられます。
このように古い歴史のある野崎観音ですが、正式には「慈眼寺」といいます。こちらでは毎年ほぼ5月1日から8日までに無縁経の御開帳があり、そこでは本尊十一面観音立像の功徳により、衆生の罪や穢れをきれいに祓ってもらったり、衆生をお守りしてくれるご祈祷があったりで、参道はもうそれにあやかりたい参詣人でいっぱいになるそうです。その参詣人を当てにした夜店も、その間たくさん出てものすごく賑やかで、夜は明るくきれいだそうで、これはこの辺りでは有名な一大行事だそうです。
私も賑やかなところは大好きですから、来年は是非参加したいと思ってます。3月くらいに日程が決まるようですから、問い合わせして読者の皆様にもこちらの旅連載記事の中でお知らせしたいと思います。

於染久松色読販(おそめひさまつ うきなの よみうり)の記念碑。これは、四世鶴屋南北作の歌舞伎狂言で、文化10年(1813年)3月に江戸・森田座にて初演されました。そこに野崎参りが出てくるため、記念碑が作られたようです。
東海林太郎の歌う「野崎参りは、屋形船で参ろう、...」の出だしはなかなか名調子で、子供ながらにいい曲だなぁなんて思いながら、屋形船で行く野崎参りとは、どんなところなんだろうかと、ずっとイメージが湧かず、分からず仕舞いでした。
次回に登場します楠木正成とその子、楠木正行(まさつら)の墓地の取材もかねて寄ってみました。
山の上にある見晴らしの良いお寺で、十一面観音菩薩様がいらっしゃいます。上から観る大東市、門真市、四条畷市などの街が一望でき、安産のお守りが役割を終えて、お礼参りされてビッシリと本堂の上の庇下に祀られていて、参拝者の多さと人気を物語っていました。

安産の犬のお守りがビッシリ。無事に出産された方々から、お礼参りに返納されたたくさんのお守りたち。
次回の楠木正成、正行親子はともに天皇家のために戦い、このあたりから四条畷一帯が正行の古戦場でした。楠木正成親子は河内の土豪という身分の低さ、戦法の奇抜さゆえに、天皇方にもかかわらず援軍も少なく、孤軍奮闘という中で、城というにはあまりにも小さな砦で、何万もの足利幕府の大軍を相手に善戦。皆の考えない戦い、いわゆるゲリラ戦法での奇襲、奇戦をしました。次回をお楽しみに。

ゆったりとした休憩所
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