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旅・つれづれなるままに

細矢 隆男

第11回 斑鳩「藤ノ木古墳」と蕎麦処・旅木


藤ノ木古墳

 今日はあまり皆さんが訪れる機会の少ない法隆寺の西に隣接した重要な古墳のお話です。
 聖徳太子がまだ少年だった頃のお話です。歴史の教科書では新しい外来宗教である仏教をめぐって、擁護派の蘇我氏と反対派の物部氏の対立から戦争になり、蘇我氏が勝って権力を持ち、後にその一族の聖徳太子が推古天皇を支える摂政として登場します。


玄室につながる羨道(せんどう)入口

 その戦いが始まる前にある重大な出来事がありました。その事件こそが今回の古墳にまつわる重要な内容なのです。物部氏の長は物部守屋でしたが、彼は次期天皇を才能、実行力豊かな穴穂部皇子(あなほべのみこ・欽明天皇の子)と考えていたようですが、その謀が対立する蘇我氏の長の馬子に知れ、彼はすぐに部下に命じて穴穂部皇子を暗殺してしまいます。その頼みの穴穂部皇子を支えていたのが宅部皇子(やかべのみこ・宣化天皇の子)だったようで、彼も穴穂部皇子と前後して暗殺されたようです。藤ノ木古墳はこの二人を埋葬した古墳との結論に至っています。

 二人を暗殺することで、反対派の物部守屋の力が急速に減退したところを狙い、戦いを仕掛け、確実に権力を奪った蘇我馬子は古代史における数少ない策謀家といえます。さらに権力者馬子は意のままにならない崇峻天皇をすら暗殺し、その横暴さ故に後の孫の蘇我入鹿が暗殺された「大化の改新」により蘇我氏は亡ぶことになります。


入り口から玄室を望む。

玄室奥の朱で塗られた石棺

 私がまだ出版社にいた今から33年前の1988年に奈良県生駒郡斑鳩町の「法隆寺」に隣接する、その「藤ノ木古墳」が発掘調査されました。私は梅原猛さんの「黄泉の王・私見高松塚」を若き日に読んで、感動して古代史に深く入り込みました。ですからこの聖徳太子の若い頃に造られた「藤ノ木古墳」の発掘は新聞にも大きく報道されたり、学者や研究者、作家たちがいったい誰の墓なのかについて非常に興味を持って研究しましたから、私も着目し、出掛けて見学もいたしました。

 ところで斑鳩(いかるが)とはどういう意味を持つ地名なのでしょうか?


法隆寺山門と五重塔

 斑鳩(いかるが)という名の由来は、一説によると、この地に斑鳩という鳥が群をなしていたためだと言われています。この鳥はイカルという鳥で、漢字で斑鳩・鵤とも書きます。斑(まだら)のハトと書きます。なお、伊香留我伊香志男命(いかるがいかしおのみこと)がこの地の神として祀られていたからという説もあるようです。

 かつては法隆寺の前の名前として古印に「鵤寺」と刻まれた印があります。法隆寺はその昔「鵤寺(いかるがでら)」とも呼ばれていたことが証明されました。


蕎麦「旅木」

 その法隆寺から藤ノ木古墳に行く道に「旅木」という蕎麦店があります。清楚なお店で、店名すら出ていませんが、のれんが掛かってますから、分かります。若くて仲の良いご夫婦が経営されていて、とても美味しいお蕎麦です。汁が抜群に辛み大根に合います。私は蕎麦の本場の東京神田に住んでましたが、神田の蕎麦屋よりうまいです。奈良で一、二の銘店と思います。法隆寺や藤ノ木古墳を訪ねたとき、あるいは近くを通るときは必ず寄ります。私のお勧めは「もり」と、他にはない「揚げそばがき」です。


「もり」

「揚げそばがき」撮影前にうっかり一個食べてしまったのですが、全部で六個あります(笑)。

 なお店の名前「旅木」はカムチャッカで取材中にヒグマに襲われ44歳で亡くなった写真家・星野道夫さんの著作にちなむとされます。

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