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旅・つれづれなるままに

細矢 隆男

第57回 「方丈記」の庵跡を訪ねて


方丈庵跡

 行く川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。

 この有名な出だしの作品を知らない人はいないでしょう。教科書でも習った日本の三大随筆の一つであり、徒然草、枕草子に並ぶ今回の「方丈記」です。この作品の作者は、ご存じの鴨長明(1155~1216年61歳没)で、名門下賀茂神社禰宜、鴨長継の次男に生まれました。位階は従五位下、法名は蓮胤(れんいん)でした。

 私は以前から京都宇治に近い日野山中の「方丈庵」を訪ねたいと思ってました。鴨長明とほぼ同じ時代を生きた親鸞上人の誕生の地、日野法界寺の裏山中腹に位置します。この親鸞生誕地を訪ね、国宝の「阿弥陀如来」像を撮影させていただく機会を得て、その撮影前に時間を作り、訪ねてみました。

 「方丈庵」下300メートルくらいまで、舗装道路があり、車でも行けて、道端に駐車スペースもあります。舗装道路のあるところまでは今は人家がありますが、鎌倉時代は相当に人里離れた寂しい場所だったと思われます。本当に四畳半くらいの、川に沿った岩場の上の場所で、このような山中に一人で10年も世捨て人の生活を送り、執筆生活を実行できた鴨長明が、ある意味うらやましい気がします。

 全く人里離れた水と木しかない場所ですから、冬は寒く、台風や嵐などの時に庵ごと吹き飛ばされないようにする工夫だけでも大変だし、食事も玄米炊飯に保存の利く漬物、味噌類だけと推測できます。山菜は春の山で採れたでしょうし、茸も秋の楽しみ。味噌に漬けたり、焼いたりして楽しんだのでしょう。吉田兼好と違い、ユーモアの全くない、深刻な内容の格調高い文章ではありますが、毎日深刻に生活はできませんから、移りゆく自然を愛して、無常観転じて季節の食べ物を楽しんだと思います。そうでないと61歳といえば当時では長寿で、ここまで生き抜くのはなかなか難しかった時代です。

 私が想像するに、鴨長明はアウトドア生活の達人で、シンプルな「森の生活」を楽しんだのではないか。薪燃料を濡れないように保存するだけでも大変だし、火種を保つことにも工夫したことでしょう。南側に三尺のひさしを作り、芝を折ったと書いてますから、秋の木漏れ日の中で、こうした自分だけの「庵」生活時間を、結構楽しんだのだと思います。


親鸞生誕地・日野法界寺

 当時、荒れた世相を反映して、生活苦にあえぐ人たちから仏教は、心のよりどころとして信仰されるようになり、難しい比叡山の聖道仏教(自力で困難な道を開き修行する仏教)より簡単な念仏を唱えるだけで救われる法然上人による「浄土仏教」の人気が集まりました。世の仏教の教えでは1052年ごろから「末法」という時代になるといわれていました。つまり、現代的に表現すると「世紀末の時代」であり、仏教においては「教え」がすたり、天変地異が連続する、最悪の時代ということになります。まさにそんな時代になったのです。

 歴史上でも、保元・平治の乱から源平の合戦に明け暮れて、まさに「平家物語」の「栄枯盛衰」の物語、「末法」の時代の様相を呈して来ました。火災、落雷、竜巻、地震、飢饉が次々と人々の生活を襲い、天変地異が立て続けに起こりました。餓えたり、焼け死んだり、竜巻で飛ばされたり、まさに混乱の時代といえます。いま推定すると、当時の平均寿命は29歳だったようで、半数以上は成人せずに、あるいは生まれてすぐに死んでいった時代だったようです。そのような現状に、鴨長明は出家をして改めて人間世界の無常観を文章に書き表し、長寿とされた61歳まで生きました。鎌倉時代の「徒然草」と並ぶ随筆として、自分の人生の記録として本作品を書き残しました。


方丈庵への道標

 彼の生きた平安時代後期から鎌倉時代前期はまさに文化が悪化してゆく時代であり、無政府状態になる過程である上に、京では都市災害すなはち地震、火災、突風竜巻、雷、水害、飢饉が重なる、日本史上まれに見る悲惨な時代、最悪とも言える時代でもありました。街中には餓死者や被災した犠牲者の死体が山となり、腐乱して「餓鬼草紙」、「地獄草紙」そのものの様相を呈していました。平家の政権もそんな京都を捨て、神戸の福原遷都を実行して失敗するなど、まさに地獄の世界、末世的世の中となっていました。

 この鴨長明の代表作は、もちろんこの「方丈記」であり、そうした時代背景から全編に無常観、虚無感が溢れ、うたかたの世の転変が、生じては飛沫として消える「泡」として描かれます。作者が体験した、その災害の現場とそれを経た世の移り変わりが描かれます。「無常観」と「栄枯盛衰」が全編を貫き、作者の生き様や人生観や「方丈庵」を作って住む経緯、人の世のやるせなさ、一人暮らしの様子や想いが書かれ、混乱の時代を生き抜く辛さが描かれ、胸を打ちます。

 歌人としても有名な鴨長明は、鎌倉時代初期に成立した『新古今和歌集』に10首も入っているほどの歌人で、かつまた琵琶や琴の名手ともいわれ、文学的な素養豊かな人でもあり、家の設計などもできる多才な人だったようです。


庵への道

 そんな彼に思いがけない出来事が起きます。当時の天皇、後鳥羽院にも認められ、和歌所の役員にも抜擢されました。しかし鴨長明の父の跡を継ぐ機会を親族に裏切られて邪魔され、奪われたことから、人間不信に陥り、これが原因となり出家をしてしまいます。

 しかし、混乱の時代を強く生き抜くというより、繊細な感受性から、意識は内向的であり、もともとの文学肌からか、人づきあいも苦手というか、思うようにはうまく行かない性格だったようです。 時代は生きてゆくのに精一杯であったようで、妻子もいたようですが、辛いことの多かった30歳の時に離別したようで、以後一人の気楽さを友として暮らしてきたようです。そんな彼の孤独を慰めるために大切にしたのは、音楽と和歌のようでした。


庵跡

 その後、 50歳のときに出家して1216年に亡くなるまで日野山・中腹でひっそり生活をおくり、一丈四方、つまり一辺約3メートルの正方形の自作の草庵に暮らし、『方丈記』を書き上げたのでした。 私は、この「方丈」なる庵、3メートル四方、9平方メートルの小さな家に、実際に住めるものかと疑問に思い、あれこれ想像していました。ですから環境面での確認の意味もあり、現地に来て、この目で確かめてみたかったのです。大きな自然の岩の上に、まさに最適な方丈の庵の必要最小限のスペースを見つけたときの、鴨長明の喜びが伝わるようです。やや川への傾斜があり、東側に庇のような岩があり、東からの風を防いでくれます。また下がしっかりした岩ですから、地盤の安定感は確保されますから、重めの石を庵の随所に置けばよかったでしょう。

 設計と建築に興味を持ち、草庵での遁世生活に執着する鴨長明は、自分では仏教的な往生からはほど遠いものではないだろうかと反省したり、自分の生き方、在りかたを問う場面がありますが、鴨長明は『方丈記』の中で、自分の人生と、災害の多かった時代を考え、多くの人たちの「死」を想い、「人生とは何か」「この人生を生きる意味とは何か」を自分自身に問いかけると同時に、この『方丈記』を手に取る私たちにも同じ問いを投げかけているのです。


庵周辺。鴨長明が座ったと推定される石

 現代社会は、経済的な力、武器による威圧、止まない権力闘争、経済闘争に左右される時代になり、いやが上にも世界規模の世界を生きるようになりました。

 「自分」と「人生」、老齢化が進む現在、インフレや食糧難に振り回されて、大切な「生きる時間」そして次第に近づく「死」までの時間を、いかに有効に使うかということが、現代のわたしたちにとって、あまり切実でなくなってゆく想いがします。「人生をどう個性的に生きるか」という問いかけに、深く考える機会は少なくなってきています。私たち人間は、時代の流れや世界的な経済や事件の大きな力に翻弄され、どのようにこの世の中に生きた証を残していけばよいかを見つめなおすことが大切だと、『方丈記』は教えてくれているように思います。

 鴨長明が生きた最悪の時代に、 多くの宗教が生まれたのも、そうした時代背景があったからなのでしょう。浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、曹洞宗、臨済宗、時宗などの新しい仏教が一時に生まれた理由が分かるように思われます。


庵跡に立つ石碑

※こちらをクリックされますと、同じ著者による「掌の骨董」にアクセスできます。併せてお楽しみください。


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