文化講座
第48回 三河の城(1) 野田城をめぐる攻防
「藪の中の小城」といわれた野田城・本丸遠望(少し小高い場所)
以前、楠木正成(1294~1336年)と鎌倉幕府軍との戦いである千早赤坂城の攻防について書きました。なぜ楠木正成と千早赤坂城について書いたかといいますと、私は楠木正成という在野の一匹狼である武将の生きざまが好きなことと、最期は天皇方について、思う存分、きっと悔いなく戦えたことが良かったと思うからです。(*こちらをクリックされますと「千早赤坂城の攻防」にアクセスできます)
千早赤坂城は、自然の急峻な地形を生かした、ある意味、どこにでもありそうな「平凡な山」が、防御設備としての「城(砦)」として、いかに指揮者の力量、方針次第で驚くべきしぶとさを発揮し、堅牢な防御施設になり得るかという、そんな事実を皆さんに知っていただきたかったことから書いてみました。また初め、幕府側は簡単に攻略できる、取るに足らない小城と考えたその「城」が、実は難攻不落であり、思わぬ長期戦に誘い込まれたことが幕府軍を釘付けにし、鎌倉幕府を衰退、滅亡に追い込んだという事実も明らかにしたかったからです。
楠木正成像(皇居前広場の像)
もともと「城(砦)」は領土、すなはち縄張りに打ち込んだ「杭」みたいな存在で、その相手の打った杭を取り上げ、自分の「杭」を新たに打つ、これを繰り返したのが戦国時代といえます。一言で言えば「領地争い」です。最初は簡易な「見張り所」が次第に大規模化して「砦」となり、やがて「出城」に発展し、主君が住む「城」となりました。現代に例えれば、企業が拠点(本店)を定め、次第に支店や支所を作り、商売のエリアを少しずつ広げて行くことと同じです。営業エリアを広げた先には、昔から勢力を張る地元企業がいれば、その企業との営業上での「戦い」になります。ある意味お互いに命懸けの、必死の戦いになること必定です。野田城は信玄と信長家康連合軍の間に打ち込まれた家康側の「小さな杭」といえますが、信玄サイドからは、これは放っておけない、邪魔な「杭」と感じたようでした。
昔は国の力は「生産力」すなはち主食である「米の石高」で、評価しました。それは水田の広さ、土地の広さに比例するものでしたから、領主は土地を大切に、代々引き継ぎました。家来は一族で戦い、命を掛けて働き、働き次第で戦いで得た土地の一部を領主からもらい、主従関係と信頼関係を築き上げてきましたから、自分を理解し信頼してくれている領主のためには命を掛けて仕事をしました。たとえ自分が戦いで討死しても、その領地と功績、栄誉は子孫に受け継がれ、評価され続けました。それが「家」というもので、一族の長は代々の主家への忠誠と功績を誇りにし大切にして、主家と家臣の強い絆「家臣団」が形成されてきました。「士は己を知る者のために死す」といいますが、自分という人間を知り、自分を認めてくれる君主のためなら、死んでも奉公する、それが武士というものです。そうした絆で強くむすばれた組織のあり方を大きくいえば「封建制」、小さくいえば「主従関係」といいます。
「権利・義務」の契約関係社会の西欧と違い、強い信頼関係で結び付く日本の強さの秘訣は、計り知れない「信頼関係」にあり、死を恐れずに戦う「家臣団」の強さによりますから、これ以上、敵にとって恐ろしい存在はありません。ですから主君が家臣を大切にしなかったり、家臣の働きを軽んじたり、評価しなかったりすると、命懸けの家臣は主家を裏切る場合も出てきます。いわゆる「謀反」、「反乱」です。さらに楠木正成みたいな、主家を持たない土豪の在野の一匹狼も出てきます。武将それぞれの人間性により、束縛されずに好きなように生きる「無頼武者」、いわゆる歴史にいう「悪党」が全国に群雄割拠します。戦国時代で有名な無頼武将といえば松永弾正久秀でしょう。何度も信長を手玉にとろうとしますが、最期は運に見放され、信貴山城を枕に、信長が欲しがった茶道具「平蜘蛛の茶釜」を道づれに爆死したと伝えられてます。
岐阜城天守閣から見る豊かな穀倉地帯の濃尾平野。稲葉山全体が大要塞であり、山上には小さな天守ではあるが、そこから360度のパノラマで見渡せる広大な「領土」を眺めれば、斎藤道三だけでなく、信長も秀吉も、戦国武将であるなら誰でも、命を掛けた勝利の満足感にひたったことだろう
戦国乱世の世では、美濃の斎藤道三のように一介の油売りからのしあがり、広大な濃尾平野を見下ろす国持大名、稲葉山城(後の岐阜城)の城主、一国一城の主になる場合もありました。しかし一代で出来る範囲は限られ、一国一城の主になることが限界ともいえます。信長は父がすでに「清州城」という城持ち大名でしたから、道三とはスタートの土台がワンステップ違いました。さらに信長という「風雲児」に従い、うまく戦国時代を泳ぎ切り、それまで築き上げてきた過去の自分の業績を取り戻すことに成功して「天下取り」となった豊臣秀吉の事例もあります。そうした血みどろの戦いの中に無念の死を遂げた武将がどれだけいたかは、現代では想像すら出来ません。そうした中で、信長に長男や妻を殺されて、秀吉にも譲歩して、権力に欲張らなかった家康が最後の勝者になりました。
野田城は「藪の中の小城」と「三河物語」で言われたほどの小城で、その兵力も城将・菅沼定盈(すがぬまさだみつ)とその援軍合わせて500名程度でした。しかし、河岸段丘の崖地を巧みに利用した築城によって攻め口が限られてくるため、武田の大軍を相手にするには有利な構造となっていました。それでも兵力30,000を有する武田方の有利は変わりません。しかし武田軍は損失を恐れ、力攻めは行わず、兵糧攻めと併せて、わざわざ甲斐の金山掘りを呼び寄せて地下道を掘り、水の手を断ち切ることで落城に追い込む作戦を採りました。
野田城は戦国時代の雄である甲斐の武田信玄の巨大な勢力範囲と、新興の織田、徳川の勢力範囲のちょうど境界線あたりに、城をかまえ、戦国時代には難しい舵取り、経営を強いられたようです。
野田城の案内図(一部文字が逆になってます)
城でいう本丸、野田城の場合は一の丸ですが、この城を歩くと、掘り割りや空堀が深くよく残り、城の一番シンプルな、初期の形を理解できる格好な城跡で、私も巨大な城より、こうした実戦的な小さな城が好きです。さらにこの城を囲い、沼や池、川の流れが城を守り、なかなか攻めにくく、業を煮やした信玄は金堀職人を城の三ケ所に投入、水源を絶とうと試みて、長い時間を経てそれに成功し、とうとう落城しますが、信玄は病を得て、全軍甲斐に戻ろうとしますが、諏訪手前で信玄は亡くなり、已む無く諏訪湖に水葬したと伝えられています。一説には、野田城で狙撃されて落命したという風説もあります。
戦国大名の大半は「依らば大樹の陰」で日和見的に安全に生き抜くことが「家」を守る常套手段でした。金のかかる戦はできればしたくありません。何回か先になりますが、[古城めぐり【3】田峯城]では、野田城城主と同じ三河の豪族、菅沼一族が城主ですが、実は私が初めて勤務した会社に菅沼社長という方がおりまして、まさに「戦国武将」にふさわしい風貌をされた、親分肌で非常に面倒見の良い方で、大変お世話になりました。歴史が好きな社長で、しかも愛知出身の三河訛りの残る方でしたので、私が「社長はあの三河の豪族の菅沼氏の子孫ですか?」と聞いたのですが、一瞬驚いてましたが、はっきりそうだとはいいませんでした。しかし、社長の風貌はまさに戦国武士の子孫であることを物語っているように、私には思われました。やはり信玄に蹂躙され、捕虜にもなった一族ですし、花形武将ではなかったためか、はぐらかされた感じでした。また縁もあり、高校時代から古美術の教えを受けたのは「武田」さんという、レオナルド藤田(藤田嗣治)の弟子の画家、古美術商の方で、こちらは甲斐の武田家の遠縁の方でしたから、共に不思議な縁を感じました。
さて、私がこの城を初めて訪れたのは、今から10年前くらいになります。代々土豪の菅沼氏が守った戦国時代の実戦的な小城で、池と川と崖、内部は「深い土塁」に守られた丘の上に築かれた「砦」のような小さな城でしたが、防御施設としては三の丸、二の丸、本丸を持った、今でも土塁の深い城ですから、当時はかなり深く掘り下げられた、攻め上がりにくい空堀で、相当の犠牲者を覚悟しないと攻めにくいと思います。
野田城には信玄が攻めた時に、城方に城主の縁者で笛の名手がいたとされ、それが、毎夜笛を奏でると、囲む信玄側も戦いを忘れて毎夜、部下とそれに聞き惚れていたとされ、信玄も同じ場所に椅子を置いて聴いていたらしく、そのことを知った城方は昼に鉄砲の名手にその座る場所に照準を合わせ固定、真っ暗になってから、笛の音が冴えた時に撃たせたら、どうやら信玄に命中し、それが元で死んだという「伝説」があります。事実、信玄ははるばる甲斐から遠江を経て、三方ヶ原で家康をさんざん痛め付け、三河の野田城を攻めに来て、ここで何らかの当時、致命的な病、たとえば「心筋梗塞」とか「脳卒中」(脳鬱血)か何かを発症して倒れたことは確かなようです。信玄が撃たれたという言い伝えの場所を狙うには80メートル以上の距離があり、戦国時代の初期の、スコープも付かない火縄銃での精密射撃には難しい距離のように思われます。黒沢明監督は確か映画「影武者」でその信玄狙撃の場面を撮影したように記憶してますが、仮に私なら予め一丁ではなく、五~六丁の火縄銃で1ヵ所を狙い一斉に射撃します。現在のスコープ付きライフル銃なら可能でも、丸い鉛の弾丸の火縄銃で80メートル以上はなれた椅子に座った武田信玄を暗闇の中、一発で仕留める可能性は低いと思いますし、信玄のような名将が同じ場所に置かれた床几に座るなどというようなことは絶対にしません。
本丸に立つ「野田城跡」の石碑
ですからその話も、どうやら作り話のように思います。三方ヶ原の戦い後の進軍速度からやはりこの頃から病を発症したと見るのが妥当に思えます。信玄の父、信虎も絵によりますと痩せていましたし、信玄は若いときから病持ちで、心筋梗塞、脳溢血、あるいは胃ガンで亡くなったのではないかと推測されています。
元亀3年9月、武田信玄は西上作戦を発動し、徳川家康の所領であった遠江及び三河に30,000の軍勢を率いて攻め込みました。12月22日に武田軍は遠江国三方ヶ原で徳川家康率いる徳川・織田連合軍を相手に大勝利しましたが、不思議にも遠江国浜名湖北岸の形部村に半月あまり滞在し越年してます。この頃から信玄は寒さから体調を崩し、更に寒さが厳しくなる1月から2月の厳寒期の野営は一層厳しくなったのではと、私には思われます。特に信玄は心筋梗塞の可能性は高いです。野田城を攻めあぐねたというより、信玄だけでなく、さすがの歴戦の強者たちも、三方ヶ原の勝利後からすでに信玄の病による長期滞在と寒さにより、体も冷え切り、疲労困憊という状態だったのではないかと思います。野田城攻防はその極限下にあったように思います。半月後の元亀4年1月10日に同地を発ち、野営を重ねて宇利峠から三河へ進入してますが、この頃も病状はますます進行していたように思います。その後に豊川を渡河、徳川方の三河における属城のひとつである野田城を包囲したことになってます。記録によればこの野田城が信玄が指揮した最後の戦いとなりました。この当時、3万の大軍を1日でも滞在させるには膨大な食料や燃料が必要ですから、信玄の進軍は遅すぎるといえますから、病気の進行は確実でしょう。
城の周りには小競合いによる戦死者と思われる「無縁墓標」が今もひっそり残されています。
結果として野田城は1ヶ月持ちこたえましたが、水を断たれて、2月16日に城兵の助命を条件に開城降伏し、定盈は捕虜として武田軍に連行されました。
野田城が落ちたことで、徳川家の三河防衛網が崩壊し、徳川家の重要拠点であった吉田城や岡崎城が危機に陥りました。しかし、武田軍は信玄の病状が悪化したためか、侵攻を止めて甲斐へと引き返し、その途中で信玄は亡くなったようです。
野田城の本丸と二ノ丸を結ぶ土塁の左右の空壕(かなり深い)
信玄の死が広まった直後、野田城も翌天正2年、徳川家と武田家の人質交換により菅沼定盈が解放されると、菅沼定盈は再び野田城の城主に納まりました。武田軍に捕らわれても、徳川家康を裏切ることなく仕え続けた功績が高く評価され、後に菅沼氏は、徳川政権下において大名並みに厚遇されることになるのです。
城跡に咲く「曼珠沙華」
◎野田城へのアクセス
(1)豊橋駅から野田城駅下車、徒歩で10分
(2)新東名高速道路新城ICから車で15分