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旅・つれづれなるままに

細矢 隆男

第63回 大安寺創建時東西大塔の心礎石 散歩して思うこと


創建大安寺西大塔礎石上面の分断「矢穴」跡

 前々回、奈良「大安寺」を訪ね、その古い歴史の一端に触れました。ぜひもう一度、読み返していただき、そして今回の連載をお読みください。

 京の都、平安京の北東の丑寅(うしとら)の鬼門の方位に、京を守護する目的から延暦七年(788年)に建てられた比叡山延暦寺、その創建に関わった天台宗の僧・最澄と、後にそのライバルとなる真言宗の祖、空海という二人を生んだ奈良の古名刹の「大安寺」です。最澄、空海ともにこの「大安寺」で学んだだけでなく、最澄はこの寺で剃髪・出家までしました。大変由緒ある大寺院です。


壮大な伽藍(コンピューターグラフィックによる)

 現在は奈良の東大寺、興福寺、春日大社などの「観光地」から離れて存在するゆえに、今は静かな「時」を重ねていますが、この寺の創建は古く、大和朝廷が国家の威信をかけて建立した、いわば時の天皇が国家の富と威信を傾け、全力を挙げて創建を推進し、仏教政策を推し進めた「大官大寺」の流れを汲む大寺院、それが国家鎮護の寺「大安寺」なのです。それだけに「存在感」が重く、私は秋篠からその近くに居を移しただけでなく、これまで何度も寺域をこの足で歩き、この眼で見て、その壮大さを理解してきました。特に民家が混在してはいますが、南北が長大です。北端に位置する「杉山古墳(この古墳の斜面を利用して窯を築き、寺の瓦を焼いた)」までを包括します。この辺りの奈良らしい町並みを散歩してますと、古寺の面影が随所に残り、ますますこの寺に興味が湧いてきます。


東大塔跡を望む

 また前々回も書きましたが、この東西二基の大塔が取り分け私の興味を引き、調べますと、とてつもなく大きいことに驚きます。当時の姿としては残らない推定七重の巨大な塔で、高さ70メートル以上あったと考えられ、しかも「金」により荘厳され、かつての市街地からならどこからでも望むことが出来たこの大塔は、まず南大門を入り、参道を挟んで、両側に金色に輝き聳えていました。まばゆいばかりの巨大で荘厳な寺院であったと想像されます。

 今はその礎石が当時の面影を語ってくれてますが、その表面直径だけで2.6メートル、深さ70センチになろうかという、巨大な礎石です。当時のままに残る礎石は本当に珍しいものです。


広大な空間の創建時の東西大塔の完成図

 「礎石」は大七重塔の心柱を支える基礎の石というものです。そこには「仏舎利(釈迦の遺骨)」が埋納されている部分で、実際はどのくらい大きいのか想像もできません。あまりに巨大な石であり、大石材の取れない奈良では、かなり遠くから運んだものと考えられます。また大きいだけに、貴重で、後の「城の石垣」や「庭園」などに狙われたことも数限りなくあったと考えられます。


西大塔礎石

 事実皆さんが西塔の礎石をご覧になると、幾つかの穴が表面の真ん中に打ち込まれていることが見て取れます。この穴はもともと自然に出来たものではなく、古墳時代からあると考えられる採石技術「矢穴」として職人に伝わってきた「石切(石割)技術」の一種なのです。こうして石に等間隔に四角い穴を開けて、割れやすくする「穴」を深く入れてから、そこに楔を打ち込みます。この「大安寺」の塔礎石は大きすぎたようで、見えない下部も大きく、しかも硬いため、到底割ることができなく、諦めたようで、そのまま残りました。


残る「矢穴跡」

 これは私の想像ですが、NHKの今年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主役、秀吉の弟の小一郎こと「豊臣秀長」が後に大和郡山城を築城する折に、石垣用の石材に不足し、大和は石が採れないため、一説には信長の安土桃山城築城の時のように、やむなく周辺の「湖東三山」などの礎石や墓石、さらに石仏まで使ったと言われますが、奈良近辺では当時は廃寺になっていた、巨大な「大安寺礎石」に着目して、それを運び使おうと考え、小分けにしようと割ろうとしたとしても不思議はありません。あるいは同じように、信長と同時代の戦国時代の梟雄・松永弾正久秀が般若寺に近い大和多聞山城築城の折に、石垣にするつもりで使おうとしたかもしれません。いずれにしても、私はこの「礎石」に強く惹かれるものがあるのと同じように、戦国時代の武将もその「礎石」に着目した可能性は高いです。地下にうめられたままと思われる東大塔の心礎石と、そのまま西大塔基壇に残る心礎以外の礎石はすべて失くなってます。ちなみに東大塔の基壇に残る現在の礎石はすべて現代に複製されたものです。ですから当時からそのままの西大塔の心礎石は極めて貴重な、というより「稀有」な心礎石ということになります。


御霊神社

 またこの大安寺の東隣りには「推古天皇社」や「御霊神社」、東大寺二月堂お水取りで有名な「閼伽井(あかい)の井戸」があります。次の次、4月の回はこの不可解な「御霊神社」の本来的な謎と歴史、さらに「閼伽井の井戸」の秘密に迫り、「二月堂お水取り」の謎についても、なぜ東大寺創建以来一年も欠かさず「修二会」が執り行われてきたのか、その内容についても出来る限り書いてみたいと思います。ご期待ください。(3月は越後直江津の「薬師堂例大祭」について書きます)


創建時の巴文軒丸瓦

大安寺所在地
奈良市大安寺2丁目18-1

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