文化講座
第66回 2回連載の1回目 国宝犬山城と付け城・鵜沼城を歩く

犬山城天守閣からの景色・木曽川と鵜沼城を望む
左奥に見える橋の左たもとの緑の小さな小山が鵜沼城跡・突き出た瓦の先に重なって見えるのが「ホテル・インディゴ」
今回は木曽川の絶壁の岩山の上に四方を見渡すように、創建当時(1537年)そのままの、古き姿を今に残す美濃の唯一の城「犬山城」と、付け城の「鵜沼城」を歩いてみたいと思います。私は、「犬山城」は戦国時代から残る古さと修復の程度から、唯一の本格的な「古城」と考えています。

国宝・犬山城

奥の小高い山の石神井城跡と静かな三宝寺池
小学4年の時に昆虫採取に行った東京都練馬区の石神井公園の奥、三宝寺池周辺を走り回りましたが、その三宝寺池の南側の小高い丘陵が「石神井城跡」であることを掲示で知り、驚きました。さらにそこには鎌倉時代後期という昔、豊島氏という豪族により、自然の地形を生かした掘と土塁による「館」形式の「城」があったようで、後に「江戸」という街の下地を造り上げた「太田道灌」との和平合議の失敗と幾つかの合戦を経て落城した歴史があることを知りました。この城の北側には壕をなす三宝寺池があり、落城の折に城主豊島泰経の娘の「照姫」が逃げ遅れて入水自殺したとの悲しい伝説があるようです。
また6年生の時に三橋美智也の歌謡曲「古城」が大流行して、私も子供心にその歌を好きになりました。今でも友人との「カラオケ」で歌います。後に三橋美智也は記録的な売上を達成し、昭和の歌謡界を牽引しましたが、私は「古城」の歴史とその果たした役割と日本人が好きな「栄枯盛衰」「あはれ」の考え方に興味を持ちました。

東京国立博物館・東洋館の子供のミイラ
その頃の私は「エジプト」の「ミイラ」に興味を持ち、上野の「東京国立博物館」で衝撃的な「実物」との出会いをしました。約3000年前の10代の子供のミイラです。「死」という「事実」との衝撃的な対面でした。死ぬとは何か、死体を残すことの最大の意味「復活」の思想について考えたりしました。それは今でも親鸞を考えたり、ニーチェ、ハイデガーを考える時の問題として継続しています。
以後学校の図書室で図録を調べるようになり、古代文明の不思議な建築や宗教、形の持つ思想、美術に興味を持つようになりました。
奈良に転居して以来、写真撮影を本格的に始め、その対象に選んだのが、その影響もあったのか「塔」や「城」でした。薬師寺の三重塔を手前に大自然の朝焼け前の美しさを550日間通い、撮影しました。

朝焼け前の薬師寺大池
今回の「犬山城」は何回も訪れた「古城」というより、創建当時のまま残る稀有な城であり、私は木の古さからくる使われた「古てかり」の美しさ、味わい、その建築というか「材木」の質感、特に心柱の仕上げや横木の「チョウナ」の削り痕の美しさに惚れ込み、撮影し続けています。

犬山城の一階の横木の古く美しい「チョウナ」痕。
徳川政権による、「一国一城令」により廃城となり、破壊棄城された城は多く、さらに明治6年残る「廃城令」が追い討ちをかけました。時代の流れから城が壊されることになったわけです。このため創建当時の様子を伝えてくれている城は現在12城と少なくなりました。しかし、多かれ少なかれ修復はなされており、そうした中でも更にオリジナル性が高いのが、現在では「犬山城」なのです。個人的には「松山城」の天守閣最上階に向かう急階段と最上階の板敷きの古さと輝きが素晴らしいので、撮影にしばしば行きます。今夏は松江城(1611年創建)を訪ねたいと思います。
最近は地震から再建される場合は耐震設計のため、コンクリート造りとなる城が多くなり、創建当時の城はますます少なく、貴重になりました。大地震で破壊された「熊本城石垣」はコンクリートにより固められ、わずかに櫓に創建当時の面影を残してますが、石積が壊されたため、その修復にはあと25年かかるようで、気が遠くなりそうです。
ちなみに犬山城の城主は初代織田信長の叔父の織田信康から14代続き、徳川政権になった1617年に尾張藩の付け家老成瀬正成が拝領し、以後9代成瀬家の個人所有でしたが、今は財団法人犬山城白帝文庫に移管されています。

犬山城天守閣の古色の美しい敷き板の耀き
案内・観覧時間
9:00~17:00
拝観料1000円(大人一人)
12月29日~31日休み
以下、次回に続く
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