文化講座
第68回 「徳島城」の不思議な散策

徳島城の堀と数寄屋橋(左)
今回は四国の屋島の「源平合戦の跡」などを巡りながら、同時に空海の「四国八十八ヵ所霊場巡り(お遍路道)」を確認し、また旅の楽しみである美味しい讃岐うどんやラーメンなどの「麺類」を味わいたいこともあり、四国を回り始めました。
そして最初に、これまでにご案内していない県ということから、今回のテーマは「徳島城の不思議な散策」と題して書いてみます。
昔から私は「太閤記」や「歴史大河ドラマ」に出てくる「蜂須賀小六正勝」に不思議な関心を持って来ました。実際は「太閤記」にあるような、秀吉を含めた青春群像であったのか、あのような底辺を這い回るような人たちであったのか、かねてから疑問に思っていました。軍記物や講談では、秀吉と共に「蜂須賀小六=野武士・川並衆・成り上がり」の「野盗」的な印象が強く、おもしろく描かれますが、それは史実とは違い、作り替えられているように思われたからなのです。実際は命がけの「思想」がそこにあったのではなかったか。
私が今回、初めて蜂須賀家の「徳島城」を歩いて感じた「不思議」な感じとは、標高61.7メートルほどの小山に残る「城跡」の「防御対策」についてです。今はどこの城跡でも、外側にも内側にも堀が城全体を囲みますが、徳島城の場合、まず最初に歩いて、外側を取り巻く堀の内側はガランとした隙間の感覚、城山の真下には「堀」もなければ石垣もありません。広場があるのみです。
普通の城なら、敵の侵入を防ぐには複雑で迷路のような道や、曲輪(くるわ)とか堀、土塁、虎口(こぐち)、馬だしなど、様々な防御施設、攻撃施設が造られるのが一般的ですが、しかしここにはそれが無いのです。のんびりした「広場」の感じです。

御殿井戸
まず、藩主が暮らした「御殿」、現在は博物館になっていて、そちらを拝見。かつての井戸や歴代藩主の「系図・肖像画」、甲冑などや、経済に力をいれた「交易船」の模型や絵がたくさん展示されています。

上三代藩主系図・上から順に、家祖・蜂須賀小六正勝、その下が藩祖・家政、その下が初代藩主・至鎮(よししげ)

歴代藩主の甲冑の一領
この「博物館」を経て城山に向かいます。この城には三つの登り口があり、その南正面ルートから登ります。道は淡々と続き、改めて「無防備」な城を感じさせます。

南正面ルートのまっすぐな石段と城石垣
しかし正面南ルートの敷石はかなり磨耗して古く、大層地味な味わいがあり良いです。途中にはさしたる防御施設やその跡すらなく、門跡や普通の「二の丸跡」がある程度で単調な道が続きます。他の城と比べてあり得ない風景です。明治政府の「廃城令」が出て、多くが取り壊されたとはいえ、普通はその跡くらいは残ります。しかも戦国大名として名高い、秀吉の創業メンバー、野性味ある蜂須賀小六正勝の城となれば、様々な工夫、技巧が施されていても不思議ではありません。しかし現存の城にはその不思議感すら感じさせないほど「防御」がないのです。

広々とした天守跡
我々が「太閤記」のイメージから、蜂須賀小六正勝は底辺の出身であると思い込んでましたから、そうしたイメージを抱くのでしょうか。
蜂須賀家は、もともと尾張、美濃の在地勢力で、正勝は早くから織田系統の武士として動いていた可能性が高く、完全なアウトロー集団ではありません。つまり、「野武士が天下人に拾われた」というより「地方武士が時代の流れに乗って上昇した」に近いといえます。調べてみますと、最近の研究では、もともと蜂須賀氏には尾張の地元に生まれ育った「蜂須賀城」なる「城」があり、その後の功績により龍野城の城主になり、さらに天正13年(1585)、今回の「徳島城」を受ける時に、小六正勝は辞退し、子の家政が阿波一国を与えられます。蜂須賀家は今まで考えられて来たように、「川並衆」と呼ばれた河川の運輸に関わる、かなり大きな組織を運営しており、経済的には当時の藤吉郎(秀吉)よりはるかに豊かであり、格上であったことが窺えます。ではなぜ藤吉郎に付いたのか、それは藤吉郎に人間的な「実力と魅力」があり、未来と夢を託せたからと考えたからだと思います。藤吉郎という人には人に大きな使命感を抱かせる能力に長けていたように思われます。「正勝、お主なら、そんな小さな砦みたいな城ではなく、もっと大きな、国規模の仕事がふさわしいのではないか、もう間違いなくそれが出来る世が来るぞ。いや来なければわしがつくる」とばかりに吹聴する。そして蜂須賀小六正勝は小規模な運輸会社の経営者から転身して、大局観に則った国の大公共事業に関わる可能性に「賭けた」、そして「蜂須賀家」を安定した「名門大名」として残す、この大きな可能性の流れに乗ったのだと、私は思います。

さっぱりとした天守の古図
① 蜂須賀家は「土豪→秀吉家臣→大名」というより、かなり早い段階で武士化していたといえます。『太閤記』などでは、小六は半ば盗賊頭・川賊のように描かれますが現在の研究では、これは誤りであると解明されてきています。
② 四国平定後、秀吉は阿波支配の拠点を意図的に今の場所につくった。天正13年(1585)、豊臣政権の四国平定後、子の家政に阿波一国が与えられます。ここで面白いのは、徳島市公式ウェブサイトによりますと徳島城は、蜂須賀家の私的居館ではなく、豊臣政権の西国統治装置、支配拠点作りとして始まったと考えられていることです。

のどかな城西側ルート
③ 山の中の一豪族の居宅を捨てて、平地・港湾・流通先に拠点を新たに移したのでした。ここが重要です。家政はこれまでの考え方を捨て、徳島城を中心に、城下町、河川交通、港、行政を新たにまとめて「再設計」したのです。つまり徳島は、大阪、関西圏の流通を担う新興都市建設プロジェクトの一大拠点になったといえます。
④ 蜂須賀家の大きな特徴は「外来支配」であるといえます。徳島城創建で意外なのは、家臣団です。阿波の旧勢力を大規模登用せず、尾張・播磨以来の家臣団を連れて入国しています。
ここに新しい秩序は、地元共同体の延長ではなく、元から下にいた、以前からの自分たちの「戒律・決まり」に慣れた人たちにより、即時に統治されました。このように、徳島藩には独特の統治文化が、早々に形成され、実施されたのです。
先の系図に見る家政の絵姿は、武家というよりむしろ印象は逆です。豪放な小六像より、静かで行政的で、慎ましい。都市造成能力に長け、長期支配の基盤を作った「実務派」の人といえます。二代目としては最適の資質を持っていたようです。「派手な革命家」ではなく、 「コツコツと仕組みを作ってきた人」という感じでしょうか。
ですから『太閤記』系統の「流浪の日吉丸(藤吉郎)を小六が見込んだ」「後に秀吉が恩返しに城持ち大名にした」 という物語は、史実というより後世の英雄譚として読む方が自然です。 ただ、ここからが面白いところです。
秀吉は古参の小六正勝の功に応えるというようなことはあったのか、なかったのか。もちろんこれは「かなりあった」と私は思います。ただし、その形が独特です。
蜂須賀小六正勝は、最終的に播磨龍野五万石の領主となり、秀吉の宿老格まで上がっています。しかも四国平定後、阿波一国付与の対象にまでなってます。ところが実際の領国経営は嫡子・家政に譲る形を取っています。ここが私は重要だと思っています。秀吉は単なる論功行賞で、「はい、一城あげる」では終わらなかった。むしろ、蜂須賀家を一代の功臣としてよりも、「家」として残した。これは大きいと思います。「小六に城を約束した」より、「小六の『家』を国持大名として残そう」「国を富ます組織」として残そうとした、こう考える方が実態に近いかもしれません。そこに「戦国」から「安定期」の国造りが見られます。
蜂須賀家はむしろ英雄譚に見せかけて、実は非常に現実的に「家を残した」人たちといえます。
たしかに「秀吉が小六を引き上げた」というだけでは、蜂須賀家の実像は見えなくなります。小さいとはいえ蜂須賀家は、城(砦)を持ち、土地と人を持ち、地域で組織の独立性を持つ。これはすでに一つの完成された「経営」の形です。だから、もし蜂須賀小六正勝がそういう「一経営者」であったなら、秀吉の家臣になることは、単純な立身出世ではなく、一族にとってはかなり危険な賭けだったはずです。失敗すれば家ごと「吹き飛ぶ」のです。にも関わらず藤吉郎秀吉の側に付いて働いたのです。
彼は大きな「世界」を見ていた、これはあり得ると思います。しかも、ここで秀吉の面白さが出ます。「人たらし」、まさに秀吉理解の核心の一つです。秀吉は単に恩賞を積む人ではなく、「お主ならもっと大きくなれる」「これからだ。共に大きくなろう」と未来像を相手に見せる力があったし、しかもそれを実行して見せた。だから蜂須賀のみならず、加藤清正、福島正則、黒田官兵衛、石田三成、みんなかなり性格も立場も違うのに集まる。

徳島城と町造りの模型
でも私はもう一つ面白いと思ったことがあります。もしかすると小六は、秀吉という人物そのものより、さらに向こうにある「時代の流れ」を見ていたのかもしれません。ですから「城の守り」のような目先のことではなく、経済政策、国を富ます秩序の育成に力を入れていたのではないか。いつか「国人領主」の時代が終わる時が来る。城一つ守るより、 経済、交易重視、広域秩序、社会秩序をつくる方が家が残る。そう読んだ可能性は高いです。

蜂須賀藩の大型交易船の絵
外から見ると従属。内側から見ると、自分で門を選んで通る。そう考えると、小六正勝も少し違って見えてきます。
豪胆な野武士ではなく、時代の転換点を正確に読む、英雄像ではなく、かなり知的な国人、それが「蜂須賀正勝と、彼が教育した息子家政」の真の顔であったように思えてきたからです。それが「城防御」に力を入れず、国そのものを富ませ、港湾整備を含めた新しい「経済中心都市整備」に力を注いだ「国造り」だったように思うのです。であるからこそ、激動期である戦国時代のみならず、敵視されることなく、秀吉の死後の戦国時代的な権力闘争を嫌い「関ケ原の戦い」に際しても徳川家康の国家戦略に傾斜し、経済的な安定期としての「徳川時代」をも生き抜けて、小六正勝から数えて15代の長きに亘る長期領国経営を続けることができたのだと思うのです。

天守への道
資料・徳島城博物館

