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頤医の「かて食」&「かて茶」ワールド

信天翁(アホウドリ)喫茶主
医学博士 山中 直樹(宗直)

かて食&かて茶のグローカル食で「やわらかくつながる」-6

 喫茶・茶の湯は今日にあっても「やわらかくつながる」役割をしています。
 「お茶でも飲みますか!」「喫茶店でも行きますか!」と人がコミュニケーションを取るための最初の「つながり」となる仲介役を果たしていると思います。
 この場合に用いられるお茶の意味は必ずしも学名カメリアシネンシスを原料とした「お茶」を意味しているとは言えません。
 紅茶の原料は緑茶やほうじ茶などと同じで、コーヒーやココアなどは異なりますが日常的には「お茶」と表現されていることは多いと思います。
 つまり、「お茶」が飲み物の総称となっているのです。
 「ご飯でも食べますか!」と言われると「ご飯」が「食事」の代名詞となっています。
 つまり、「ご飯」がお米を食べる意味を越えて用いられることが多いのと同様に「お茶」の用い方に慣れているのです。
 
 お茶がお酒と同様に仲間や人々が集まるために広く用いられ始めたのは鎌倉後期から戦国時代です。
 「闘茶」の集まりは今日的に言えばお茶のブランドの当てあいをするゲームを楽しみ宴会をするような寄合です。
 また、室町中期頃より「淋間茶の湯」が始まりました。
 有名なのは、わび茶の元祖・村田珠光と親しかった大和国古市郷の土豪だった古市澄胤です。
 配下の仲間を集め、外で汗を流すために風呂に入った後に茶を飲み、食事をし、酒を飲んで仲間意識を高めたのです。
 利休と同時代に薩摩の島津義久の側近だった土井覚兼は秀吉・利休時代にあっても勇猛果敢な武将であり、文化人、教養人だったのですが秀吉や利休たちとは別に独自の茶の湯を楽しみ仲間と淋間茶の湯を開催したと言われます。
 茶の湯は織田信長によって政治的な利用をされ、茶会を開くことが出来る許可を与えたり、茶道具を領地の代わりの戦勝品として用いたりしたのです。
 秀吉は御所で天皇に金の茶室や茶道具で茶を捧げたり、北野大茶の湯を開催したことで知られています。
 北野大茶の湯は北野天満宮で開かれて、およそ庶民も含めて何人でも茶の湯を楽しみたい人たちに広く参加を強いています。
 茶の湯が多様な意味で人との絆・つながりのため用いられていたと判ります。

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