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頤医の「かて食」&「かて茶」ワールド

信天翁(アホウドリ)喫茶主
医学博士 山中 直樹(宗直)

かて食&かて茶のグローカル食で「やわらかくつながる」-5

 「ハレ」の酒、「ケ」の茶は「やわらかくつながる」にとって歴史的な昔から言っても大切な食文化だと思います。
 いずれもが縄文時代から人がつながる為の食文化の中心的な役割を果たしていると考えられます。
 酒は巫女のような女性による「口噛酒」として、茶は「羹」(アツモノ)として縄文人達が始めており、縄文土器にはそれぞれに適した形の土器が遺跡として見つかります。
 縄文早期から数家族が「バンド」と言える家族共同体集団(血縁社会)を中心に一定の地域内で季節の変動に伴う自然からの食糧資源を求めて移動する生活様式をしていたと考えられるのです。
 新石器時代となって次第に温暖化が進み、海水面が上昇して、大陸から分離されるとともに、山、森、河、川、海が近い内陸地域に住を構え、定住的生活様式によっても安定的な食糧資源が得られるようになったのです。
 また、地域地域での特産物(例えば、黒曜石など)を定着的集落間で遠方までも平和的に交換し合う社会となっていました。
 竪穴住居前には土偶を作り、意識的に割って埋めたりしています。
 既に、四季の変化や時間を知るために秋田県鹿角市の大湯環状列石や青森市の小牧野遺跡のように複数の集落が協同しなければ作れないような遺跡を築く、社会だったのです。
 群馬県安中市の天神原遺跡のように春分・秋分の頃には妙義山へ日が沈むような遺跡が作られています。
 今日の我が国に続いているアニミズム精神の基に太陽や生命の誕生、死者の弔いが行われるようになっていたのです。
 「ハレ」の祈りを女性による「口噛酒」で季節の移ろいを教えてくれる自然の神々との直会を行っていた可能性が秘められています。
 卑弥呼による直会と人々との共飲共食の原点が始まっていたのだと思います。
 子供の誕生や死亡、人の死を弔う土偶を住居前にわざわざ割って埋葬するような祈りの折には「レストラティブ」と言われるように「元気の出る命のスープ」として四季を通じて緑葉をつけている再生力のある「ケ」の「茶」が飲まれていたと頤医は考えています。
 アニミズム的畏敬の象徴として「ハレ」の酒が捧げられ直会と共飲共食で集落の人達が「つながり」、命の死と再生を願って「ケ」の茶をスープとして共飲共食した「つながり」の象徴となった歴史が今日につながっているのだと思うのです。

頤医の「かて食」&「かて茶」ワールド
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