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掌(てのひら)の骨董

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

掌の骨董85.御深井おふけ焼 尾張徳川家釘隠くぎかくし


御深井焼 尾張徳川家釘隠

 今回は尾張(愛知県)の最も重要な産業の一つであるやきもの、特に日本陶磁史において重要な役割、すなはち釉薬の発見をした平安時代の猿投焼の伝統を受け継いだ古瀬戸を親に持つ、尾張徳川家専用窯、すなはち御用窯とかお庭焼きと言われた藩主専用の茶道具類を焼いた「御深井焼」についてご紹介したいと思います。「御深井」(おふけ)という名前は初めて、という方もいらっしゃると思いますが、実は名古屋城の西北櫓一帯を御深井丸といい、重要な本丸を守る外曲輪(そとくるわ)の一つでした。


名古屋城天守閣

鯱(等身大再現品)

 お城の中で焼いた、古瀬戸の技術、伝統を継承した最高級のやきものともいうべき尾張徳川家の専属窯の作品です。


名古屋城の案内掲示板に見る「御深井丸」

 城を守るためには井戸は大切な施設で、古来戦いにおいて水源を断たれると城は落ちますから、水は城を守る武士たちの命綱であり、井戸は戦略上最重要なものでした。今でもその名残か、石の井戸が再現されていました。


再現された石の井戸 本来はもっと大きな井戸だったと推定されます。

 城は広大ですから深い井戸がおそらくたくさん掘られ、そうした中でも一番重要な井戸との認識が「御深井」にはあったものと推測されます。

 今回の二葉葵の釘隠しは葵紋でも変形紋で、もともと上加茂神社の神紋であった「二つ葵」ですが、家康の祖先の松平家は上加茂神社から出た一族ともいわれ、そのため家康は威厳を示すため、一つ葵葉を加え、三葉葵としたともいわれています。「丸に三つ葵」ともいい、俗にいう「徳川葵」として有名です。


古瀬戸の釉薬の伝統を受け継いだ御深井焼の釉調 室町期の色合いが残る

 徳川御三家(紀州・尾州・水戸の三家)では同じ「丸に三つ葵」を使用していますが、葉脈や芯の数など、細部に微妙な違いが見られます。
 しかし本来、植物のフタバアオイには三つ葉のものは非常にまれで、そうしたことから三つ葉葵は家康考案による架空の紋ではないかとされています。


双葉葵

 先に述べましたように上賀茂神社の神紋であった葵を正式な家紋としたことから、徳川家は上賀茂神社の出身であったのではないかといわれていますが、家康は権力者となってからは自らの威厳を知らしめるために、三つ葉葵に限らず「葵」を使用した他家での葵紋の使用を厳しく禁じたようです。本多家には家康政権確立期の功績から一茎三葉葵を許可してますが、これなどは例外ともいえる事例です。

 また有名な水戸黄門の葵の御紋の印籠は実在せず、物語をおもしろくするための架空のものとされます。またもともと黄門様は自領内を供を連れて視察された程度で諸国行脚などは危険で、到底あり得ない話です。天下の副将軍という地位もありません。


御深井丸付近の窯跡とおぼしき場所

 さて今回の「釘隠」ですが、二つ葉葵の作品で、極めて珍しい作品といえます。私は釉薬の色合いから、初期の御深井戸焼であると見てます。

 日本建築は基本的に木組みが中心ですが、より強度を高めるために鉄を断面が四角になるように鍛え、使います。鍛造の純鉄製の長い釘を使う建築はかなり贅沢な建築の部類に入ります。従って、その釘を使っていることをさりげなく見せる釘隠しは大名屋敷や寺社仏閣では技術の粋を競った、奥ゆかしく渋い金工作品が多く、すぐれた作品が多いためコレクターもたくさんおられますが、陶器の釘隠しを見るのは初めてです。発掘品のようで、貫入(かんにゅう・ひびのこと)に汚れが染み込んでいます。

 かなり前ですが、私は御深井焼きの作品を集めていた時期があり、本作はその時に名古屋の大須観音骨董市で埋もれていた中から見つけた珍品です。

 御深井焼の歴史は、先に述べましたように、猿投に源のある古瀬戸の灰釉がルーツですが、新田義貞による鎌倉攻めにより幕府崩壊の1333年以後は、全面的に鎌倉幕府の御用窯として支援を受けていた北条氏が滅び、現在の瀬戸市に拠点を置いていた北条氏本家の得宗家も滅び、その庇護も急になくなり、いきなり戦国時代という荒野に放り出された瀬戸陶工たちは、苦難の末に1436年永享8年に美濃の土岐氏に迎えられ、その技術を室町時代末期から桃山時代の「美濃焼」として再開花します。いわゆる黄瀬戸、瀬戸黒、志野、織部としてお茶の世界に花を咲かせる一連の有名な美濃茶道具を制作します。その制作の中心をなす「元屋敷窯」に近いところをもう15年くらい前でしょうか、地元の教育委員会が発掘調査しているのを見学させていただきましたが、その折に御深井釉薬の掛かった馬盥(ばだらい・小型の筆洗いのようなもの・馬盥茶碗なるものもある)が発掘される現場を見て、やはりこの元屋敷窯のルーツは古瀬戸だと再確認したことがありました。


フック部分拡大写真 釉溜まりが美しい

 この釘隠しの釘を差しし込むフック状の部分に「定」の古い字体のウ冠の下に之のサインが上手に小さく入ってます。これは「兼定」のサインと思われるもので、私はやはり御深井焼の寺院などにあった大香炉を持っておりますが、そこには「兼定」とサインがありますが、それよりは古い字体のようです。大香炉は釉薬の色合いと貫入の様子から元禄前後の制作、ものと推定されますが、そのサインに少し似てます。同人か一族かは今後の研究によりますが、興味深いサインですので、ある程度調べがつきましたらまた皆様にご報告させていただきます。


「定」字の拡大

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