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インターネット公開文化講座

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掌(てのひら)の骨董

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

掌の骨董75. 新羅天馬・麒麟文(ペガサス文)軒平瓦残欠

 引越は人生に何回か経験する方は多いでしょう。私は大きな引越は過去に東京の中野から神田に越したときと、今回2月末にその神田から奈良に転居しました。その荷物整理はまだまだですが、早くも以前完全に紛失したと諦めていた作品が二点出てきました。今回の新羅・天馬文・麒麟文(ペガサス文)軒平瓦(しらぎてんまもん・きりんもん、のきひらかわら)残欠がそのひとつです。

 これを購入したのはもう日本骨董学院を立ち上げるかなり前になりますから、かれこれ40年前になろうかという昔、曲がりくねった熱海の駅前の坂の途中の骨董屋さんで求めました。ご主人が外出中で、奥さんが店番してました。私がお店に入って、この瓦が無造作に置かれていたので、さりげなくこれはいくらかと尋ねました。聞かれた奥さんが、まあこんな割れた瓦は3000円くらいかね、ということで当時貨幣価値の違う40年前とはいえ思わぬ安さで買えました。実はこの瓦の表面にはギリシャ・ローマ神話で有名な天馬(ペガサス・東洋では麒麟文)がレリーフで描かれていたのです。天馬は、三國志の曹操も憧れた千里を走る名馬を思わせ、昔から武人・貴人憧れの馬なのです。いまならさしづめプライベート・ジェット機というところでしょうか!麒麟は霊獣・神獣で平安な世をもたらすとされます。


慶州・天馬塚古墳

 当時、私は高松塚古墳の発掘から古代史に興味を持ち初め、さらに朝鮮半島の新羅に興味を持ちました。新羅の時代に天馬塚という王族クラスの墓が築かれましたが、羅馬と書いて当時はラーマと読み、ローマ帝国を意味しました。小国から身を起こし、これから大国を目指してのしあがろうとするとき、ローマはかつて世界帝国を形作った一大強国でしたから、その発展と衰退はよき目標となり、参考となったことでしょう。共和制から独裁者である皇帝になろうとしたシーザーは暗殺されましたが、その国家としての勢いと力は遠く朝鮮半島にまで影響を与えました。新しいローマ帝国のような国になりたい、そんな意気込みが新しい新羅の命名に込められているように思われます。そうした息吹が上の写真、天馬塚(ペガサス・麒麟)の命名やこの瓦の表現にも表れていると思います。瑞雲や霊芝など東洋的表現を背景にペガサス・麒麟が描かれます。天を駆ける国、新羅です。


高松塚古墳壁画

 このペガサス文の瓦は宮殿や支配者である貴族の館に使われましたが、この天馬、ペガサス・麒麟の姿はなんと躍動感のある美しい姿をして飛んでることでしょうか。素晴らしい美しさです。新羅はローマの支配力に倣って朝鮮半島を統一、当時「はつらつ」とした、自信に満ちた国家だったのでしょう。その様子がこの瓦によく出ています。新羅の黄金文化、ガラス文化はまさにローマ帝国の影響だと考えられます。新羅、すなわち新しい羅馬(ラーマ)、自分たちは新しいローマ帝国を目指すという決意を感じます。その新羅のガラス製品の影響は更に日本の新沢千塚古墳出土の発掘遺物に類品があり、現在一式重要文化財に指定されています。


新沢千塚古墳(橿原市)

 首都慶州の山並みもそれにふさわしくおおらかでゆったりとして、まさにこの「天馬・麒麟文瓦」そのものです。奈良の原風景ともいえる雰囲気を彷彿とさせます。


日本最古の飛鳥大仏

 日本の仏教は538年に滅亡間近の親日の百済から伝わりました。いわばこの貴重な仏教の教えと仏像、仏具を一式贈るから、百済を救って欲しい、と使者をして伝えて来ました。日本に当時仏教は百済系蘇我氏を中心に日本に導入されたといわれます。権力を握っていた物部氏は古来からの三輪山信仰に代表される日本の自然神崇拝の立場から、異国的偶像崇拝宗教とは対立する立場でした。聖徳太子が登場する蘇我と物部の争いとなりました。結果蘇我氏が権力を得て、同じ横暴をまた繰り返し、蘇我入鹿は後の天智天皇となる百済王族の斎明天皇、その子である中大兄皇子に使える藤原鎌足グループに討たれ(大化の改新)、蘇我氏は滅亡します。その時百済を強大な唐と組んで挟み撃ちに攻撃して滅ぼしたのが新羅なのです。白村江の戦いに参戦し、圧倒的な軍事力の唐と新羅の連合軍と戦った中大兄皇子は惨敗を喫し、命かながら日本に逃げ帰り、急遽都を飛鳥から琵琶湖に面した近江に遷都します。

 平地の飛鳥は唐と新羅に攻められたらひとたまりもありません。唐の力を知り抜いた中大兄皇子は飛鳥から近江に至る山間部で迎撃できると考えて急遽遷都し、有利に一戦交えるつもりだったようで、仮に敗戦した場合は琵琶湖を船で北上して、若狭から大陸に逃亡する計画も立てていたと考えられます。しかし実際は唐と新羅が反目したため、日本は攻められることがなくなり、そこで中大兄皇子がやっと天智天皇として即位できましたがすぐに亡くなり(一説に大海人による暗殺説もある。確かに不審な死でもある)、息子が即位して弘文天皇となりますがすぐに対立する大海人皇子との間に壬申の乱が起きて、大海人が勝利、天武天皇が即位するという訳です。

 この時代に新羅は唐と対立しながらも繁栄します。


天智天皇の近江京を守護した南滋賀廃寺の珍しい蓮華文瓦の残欠。
(668年前後の製作で、形がサソリに似ていることから、サソリ文瓦ともいわれる)

 今回の「天馬・麒麟文瓦」はそうした天駆ける馬、新興国新羅の誇りを象徴する文様といえるのです。


春の飛鳥寺

 写真の飛鳥寺はいうまでもなく、日本最古の仏教寺院であり、平城京遷都後の名前が元興寺と変わります。日本最古の仏教が興ったお寺という、誇りに満ちた名前です。元は飛鳥寺(菜の花の背景の寺)ですから、本当に仏教伝来の最初のお寺です。新羅もまた日本に大きな影響を与えました。日本人の心のふるさと的な場所といえます。


写真は新羅天馬・麒麟文(ペガサス文)瓦残欠アップ。全体の左半分。
慶州国立博物館発行の「新羅瓦磚」の本に同手が掲載されています。

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