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掌(てのひら)の骨董

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

掌の骨董83.草創期伊万里呉須絵蓮華文杯 連載2回目/3回連載のうち


草創期伊万里呉須絵蓮華文杯

 さて前回は急がば回れの例えのように、やきもの成立から、焼きものとは何かという疑問にいたる基本を学んでいただきました。さて今回の2回目は、江戸初期まで登場しなかった磁器、すなはち伊万里の磁器を作った人たちはどのような人たちであり、かれらの運命はどのようになったか、ある程度の推測も交えて書いてみたいと思います。


秀吉像

 まず磁器は秀吉の2度にわたる朝鮮出兵により日本にもたらされましたが、それは侵略戦争であったことは間違いありません。それがなぜ起きたかについては過去の連載で書いて来ましたが、簡単にまとめてみます。

 最初に日本から朝鮮半島、さらに中国大陸への侵略戦争を考えたのは信長でした。彼はすぐに来るであろう日本統一後の自分の支配のことを考えていました。封建領主と家臣の主従関係は土地の授受により成り立ってましたから、日本統一により新しい土地がなくなり、功臣に褒美としての「土地」が与えられなくなることは王者としての信長の権威と信頼にひびが入ることを意味しました。


信長像

 ですから彼は新たな土地を手にするために大陸への侵略戦争を考えていました。信長の後を継いだ秀吉は単にその信長の考えを引き継いだにすぎません。


利休像(長谷川等伯筆と推定されている)

 栄華の絶頂期にある秀吉は奢り、利休の諌めに逆切れする始末で、利休は切腹に追い込まれます。この二人には北野の大茶会以来4年にわたる長い確執の時代があり、利休と秀吉との間にかなり不和の溝が深まっておりましたが、決定的な破局は、愛弟子の山上宗二を殺されたことと、朝鮮出兵に反対したことであると私は考えています。秀吉が絶対に同意しないことは分かっていてこの朝鮮出兵に利休が反対したようですから、それはある意味信念、死は覚悟の上の信念を貫いたことと私には思えます。


初期伊万里のきっかけの一つの「古染付」

 利休は国際貿易都市である堺を代表する商人であり、国際情勢に精通しており、朝鮮の背後に中国明朝がいることを知ってましたから、仮に朝鮮との戦争になったら明国が援軍に来て、彼らとの戦争になると考えていました。仮にそのようになったら、とても兵站部隊による食料の補給、武器の補充が持たなく、敗戦に追い込まれることは必定であると予測して秀吉に直言して怒りをかいました。

 秀吉として大陸進出は既定路線でしたから、利休が反対しても無理であることを百も承知で利休は秀吉を諌めたのです。利休は死をある意味覚悟していた、というより望んでいた節が見られます。秀吉には利休が切腹しようがしまいが、豊臣家の存続第一にかんがえると、朝鮮出兵しか選ぶ道はなかったと言えます。


初期伊万里後期の作品。

 レリーフの精度から楠谷窯の作品と考えられます。

 そして結果は明との戦いになり、戦時物資の不足特に食料と兵器の不足になり、苦戦を強いられて敗走したのです。その敗走の折に、優秀な陶工合計2000名以上を連行したようです。戦争で多大な費用を出していた諸藩は少しでも高額な茶道具を作らせ損失を挽回しようとしたため、日本では最高に高額の朝鮮陶磁器を作れる陶工たちを連れて帰ったのでした。


世界最高峰ランクの磁器「鍋島」作品(江戸後期作品)

 諸藩では彼らを大切にしたし、連れて来られた陶工たちも、奴隷のような地位の母国李朝にいるより日本の方が待遇もいいし、居心地もよいため、祖国に帰りたいという陶工はすくなかったようでした。そんな彼らのうち伊万里に連れて来られた帰化陶工が、磁器の原料となるカオリン(カオリナイト)を有田の泉山近辺などで見つけ製作したのが磁器の始まりで、本作はその当時、唐津焼を焼いていた小溝窯で試し焼きされた磁器のひとつで、大変貴重な作品といえます。これらは草創期伊万里と呼ばれます。その草創期伊万里である本作には驚くべき文様が描かれていました。なんと紀元前ギリシャ全盛期の、横に描かれたロータス文様、唐草文のルーツとされる蓮の花の古い図柄なのです。


草創期伊万里呉須絵蓮華文杯

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