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掌(てのひら)の骨董

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

掌の骨董79.「釈迦如来石像」


釈迦如来石像(ガンダーラ・2世紀から3世紀)

 前回の平安阿弥陀トルソについて書いたあと、会員の方からご質問をいただきました。お釈迦様と阿弥陀世界について、今一つ分かりにくいので説明して欲しいというご要望がありました。確かに仏教をお勉強されて、お釈迦様とあの世は結びつきにくいので、そのあたりを一度整理したいと思います。


平安時代の阿弥陀如来像

 まずそれを考える上で、重要なポイントは、お釈迦様は、もともとの純粋インド人ではないということです。現在分かっている範囲で書きますと、紀元前7000年から2500年に現在のパキスタン南部に最古の先インダス文明が成立します。バローチスタン丘陵にあるメヘルガル遺跡を中心とした農耕・土偶文化です。牛や羊を飼い生活を営んでいた人たちがいました。長い歴史の中で、川の流れが変化することが文明を衰退させ、また新たに発展することに大きく影響します。人々は生活の依りどころを求めて移動します。紀元前2300年から1800年に先インダス文明の人たちはインダス川上流のハラッパーやモヘンジョダロに定住し青銅器文明を営みます。牛の土偶がでることから、先インダス文明とのつながりをみることができます。しかし人種は日本と違い、大陸に生きる人たちは絶えず異民族と闘争と混血があり、純粋民族性を保つのは困難だったと思われます。こうした大陸に住む環境は過酷で、それは宗教に大きな影を落とします。


ガンダーラ青年像

 火山の大噴火、巨大な隕石の落下などによる天候の急変、異変、様々な伝染病に襲われ壊滅する民族もあったでしょう。より良い場所を求めさまよい、豊かな土地にたどり着ければ定住する、悪ければ移動する、そんな繰り返しを人類は何千年の間、数限りなく経験して来ました。破壊と創造の神、シバ神が現れる必然的理由がその背景にあるようです。

 そうした中、アーリア人がメソポタミア地方から紀元前2000年ごろにインドに侵入し、武力により原住民を征服し、カースト制度を成立させます。支配者は①バラモン(僧侶・神官階級)、②クシャトリア(貴族武士階級)、③バイシャ(平民階級)であり、そして被支配者は④スードラ(奴隷階級)、この大きく分けて4つの階級が成立します。重要なのは上位3階級が支配者、すなわちアーリア人種だということです。それは4000年経た現在も基本的には変わりません。もちろん混血が行われますが、基本的にはカーストは厳然と存在し、今では2000以上の身分格差があるといわれます。この奴隷階級にあたるもともと住んでいた原住民、そうした人たちがインド人なのです。上3階級がインドを支配し、原住民を奴隷として酷使し築いた国家、これがインドの歴史といえますが、文明は多かれ少なかれそうした強者と弱者の支配関係から成り立つことが多いのです。日本人にはそうした過酷な大陸的民族支配を受けてないので、理解しにくいと思いますが、大陸で生き抜くことは至難の業といえる過酷さがあります。真理を唱えたら殺される社会だったといえます。だます、嘘をつく、そうでないと生き抜けなかったのでしょう。そうした中から奇跡的に釈迦が出現したのです。


釈迦苦行の図(パキスタン・ラホール美術館所蔵)

 お釈迦様は釈迦一族というクシャトリア階級の国王貴族の王子として生まれましたが、貧しい人たち、病気の人たちを哀れみ、国王になれる身分を捨てて庶民に身を落とし、どうしたら自分と彼らが幸せに生きて行けるかを模索しました。そして難行苦行の果てに真理に到達します。いわゆるすべての欲望から解放される生き方、解脱、成仏、悟りの世界に到達します。しかしその思想過程はメソポタミアからのアーリア人種の思想傾向を引き継いだものであることは確かでしょう。故に現在のヨーロッパにおける仏教研究は、釈迦の思想、仏教思想の源流はメソポタミアに求められるとされるようになりました。

 釈迦は生前、弟子の一人から重要な質問を受けたといわれます。それは「人間死んだら、死後どうなるのか」という質問でした。それに対し釈迦は明快にこう答えました。「私は死んだことがないから、わからない」

 極めて合理的で分かりやすい答えです。しかしこれは大変重要な内容を含みます。なぜなら釈迦は来世とされる地獄、極楽浄土を肯定も否定もしてないからです。死んだことがないから、わからないとは自然な答えです。釈迦は空想を交えない、現実主義者のようです。合理的に、死んだ者は生き返らないと考えれば、極楽浄土も地獄も生きている人間世界そのものの裏返しなのだとも考えられます。人間はもともと罪深い存在、自分はまさに悪人であるとしたのは親鸞でした。自分は欲深き悪人との認識からスタートしてますから、そうした欲深き人たちの集まりである人間社会を救うには、阿弥陀仏による極楽浄土に頼るしかないと親鸞が考えても仕方ないことでしょう。親鸞のような優秀な人間が思索に思索を重ねた結果が世話になった師の法然の教えに従うという結論でした。


唐招提寺の蓮の花

 親鸞は比叡山での修行で鍛えた若く頑健な体を持っていましたから、人一倍性欲が強く、これは「男」であれば、生物学的にも本能的にもそう作られている訳ですから、仕方ないことですが、親鸞は正直な人間ですからそのことで深く悩み、自分は罪深い人間だと自分をさいなみます。挙げ句は夢精したり、菩薩様が哀れみ、親鸞を相手にしてくれたりの夢を見て深く悩みます。そのことを師の法然に告げると、法然はそんなことなら結婚しなさい、そして夫婦共に仏道に励めば良い、と言います。若き親鸞はその一言で救われ、生涯法然を師と仰ぎます。親鸞作と言われる「歎異抄」に「私親鸞は法然上人にすかされても付き従う」という意味のことが書いてあります。すかされる、とは騙されてもという意味です。この一文は大変重要で、後程詳しく述べたいと思います。


奈良・薬師寺の朝陽

 当時僧侶は結婚できないとされていた旧弊を法然はいとも簡単に覆しました。しかし妻帯ご法度の仏教界はそのことを盾に法然と親鸞を都から追放、流刑にします。背景には法然、親鸞の宗派が信者を急速に増やし台頭してきたため、旧勢力が彼らを危険視し始めた状況が読み取れます。

 私がここで言いたいのは、純粋に人間の生き方を探究した釈迦は極楽浄土の盟主である阿弥陀如来とは直接は関係ないということであり、阿弥陀世界はエジプトなどの文明から進化発展した宗教世界観だということです。お経も蓮もお香もすべてエジプト発祥であり、さらに西方極楽浄土や地獄の思想も閻魔大王の裁判もエジプトから伝来したものといえます。釈迦は平安な生き方を模索し、結果欲望をなくす修行をしました。私は現代社会において、本能としての欲望をなくすことは無理だと考えてます。欲望が現代資本主義社会の最前提となっている訳ですから。

 先ほど、親鸞が法然上人に騙されてもついて行くと書いてることを私なりに解釈しますと、頭脳明晰な親鸞は思索の結果、極楽浄土とか復活再生はないだろうと自分では納得し、考えていたと私は思います。しかし罪深き人々や貧しき人たちを救うためには、極楽浄土は必要であり、そこにありがたい阿弥陀如来様がいて、皆が「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば、死後必ず阿弥陀様は極楽浄土に連れていってくれる、と考える方が死の恐怖、絶望から皆に希望をもたせ、安楽な死を迎えさせてあげられる、すなわちかれらを救えると考えたのだと思います。その彼の本来の、人間としての温かさ、優しさにこそ、哲学者とは一線を隔てる「宗教家親鸞」の真骨頂を私は見たいと思います。

 自分に甘い人は人に厳しいと言います。逆に自分に厳しさを持つ親鸞は、それが苦しむ人々への優しさと思いやりに変換され、親鸞を優れた宗教家として、思索者としてさらなる高みに飛躍させたと私は考えています。


自分に厳しい親鸞がうかがえる木彫像(高田市専修寺蔵)

 ガンダーラ釈迦苦行像と親鸞木像以外は細矢の所蔵品です。

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