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インターネット公開文化講座

文化講座

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掌(てのひら)の骨董

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

掌の骨董29.漢の漆絵三魚文耳杯


漆絵三魚文耳杯 縦168ミリ、横125ミリ、高さ55ミリ

 私が、漢の作品に魅力を感じ始めたのが30年くらい前でしょうか。出光美術館の漢の緑釉狩猟紋大壺などにただただ見惚れておりました。中でも漢のやきものや俑に特有な赤色に魅せられていました。いつかこうしたすばらしい漢の作品を手にしたいと思っているうちにこの漆絵三魚文耳杯に出会ったようです。もうすっかり昔のことです。耳杯とは漢時代に制作された形で、上から観ると顔に大きな耳がついているように見えることから耳杯(じはい)と呼ばれます。

 時と共に倉庫の奥へ奥へと潜り込んでしまっていたこの耳杯が、最近整理をしていてひょっこり出てきました。それと一緒に有楽町の知人の古美術商から購入した官人の俑も出てきました。改めて観るとなかなかいいです。

 この漆絵三魚文耳杯を手にした当初は、偽物ではないかと、疑った記憶があります。しかし、見込みに描かれた三魚の絵が何といっても素晴らしいし、古い趣もあります。漆の表面を精密にルーペで観察すると日本の作品とは少し違った断文(段文)なども出ているし、裏側の赤線も表と同じ味わいであり、そうした疑いも消え去りました。


漢時代の官人俑

 最近講座の中でインダス文明の事をお話して、メヘルガル遺跡出土の土偶を皆さんと鑑賞していた折に、昔買ったインダス文明展のカタログに魚が泳いでいるテラコッタ作品を見つけ、眼を奪われました。このテラコッタ製の皿(口径23㎝、イスラマバード博物館所蔵)の出土地はメヘルガル遺跡で、製作推定年代は紀元前2700年から2500年頃です。

 真ん中に三重の同心円水草、その周りを二尾の魚が左回りに泳いでいます。更にその周りを三尾の魚が同じく左回りに泳いでいます。合計五尾です。魚も水草も素朴な描きかたで活き活きとしています。純粋な魅力に心を打たれる作品です。中央の三重の同心円も気になりますが、これはまたの機会に論じたいと思います。

 メヘルガル遺跡は極めて重要な遺跡で、多くの女性土偶や後に男性土偶も作られています。インダス文字は未だ解読されていない古代文字ですから、なかなかすべての精神的、宗教的世界までは解明されていませんが、作品からみたその独自性は極めて注目されます。
メヘルガル土偶につきましては本掌の骨董シリーズの26回目に書きましたのでそちらをご参照ください。

 さて魚文ですが、私がこれまで知っている魚文のもっとも古いのはメソポタミアのサマラ遺跡出土の紀元前4500年前の土器の文様です。


メソポタミア・サマラ遺跡出土の土器の魚文

 次に古いのが前述のメヘルガルの彩文土器です。紀元前2700年から2500年頃のものです。その次がエジプトの独特のファイアンス製鉢です。(faienceとは淡黄色の繊細な土の上に錫釉をかけた陶器をいい、北イタリアのファエンツァが名称の由来とされる。)製作時期は紀元前1400年頃と推定されているこの作品のブルー色に私は着目しています。もう少し後のツタンカーメン王墓出土のファイアンス皿にも2尾の魚が回転するように描かれています。


紀元前15世紀頃のエジプトのファイアンス製鉢

 魚は種の保存の原理と食物連鎖の自然淘汰の原理からか、卵をたくさん産むことからおめでたい多産のシンボルとして多用された文様のようです。ナイル川にはそのたくさん産んだ卵を雌の魚の口の中で孵化させて、口中で育てる魚もいると聞きます。だんだん大きくなった魚は母親の口から出て遊んだり、危険が迫るとまた母親の口中に戻ったりをくり返すそうです。このことからエジプト人たちは魚を再生と生と死の輪廻、再生と復活のシンボルと見なすようになったとも考えられます。そこで後に雄と雌の2尾をファイアンスの皿に描いてツタンカーメン王の再生・復活を願って墓に入れたのではないでしょうか。その魚の絵の入った皿の様式が東洋に伝わり、私の持っている中国・漢時代の漆絵に登場してくるのではないかと推測しています。


メヘルガル遺跡出土の魚文土器

 前述のメヘルガル遺跡出土の皿の外周部分には3尾の魚が描かれ、今回の漢の漆絵耳杯にも3尾の魚が描かれています。3という数は古来聖なる数といわれ、横にすれば漢字の山という字になり、その山の意味するところはまさに山の象形文字であり、不動なる安定した世界を表しています。またエジプトの女神を両脇に従えたメンカウラー王の像やキリスト誕生の折にマリアとキリストを礼拝した東方の三賢人や、阿弥陀三尊像などの三とも関連していて興味深いものがあります。三重塔や五重塔のように奇数で使われる例が多く、七五三のお祝いなどもその流れの事例と考えられます。二重の塔や四重塔、六重塔はありません。

 更に、中国では魚の読み方をユウといい、それは裕福のユウにつながるので縁起がいいということにもなったらしいのです。

 先に触れたように、私はエジプトのファイアンスのブルーが青磁の色合いの原点ではないかと考えています。年代的にみてもペルシャ陶磁器のブルーも酸化コバルト(呉須)による発色ではありますが、やはりその影響下にあると考えられます。我が国の陶磁器の歴史の中で青磁が珍重されたり、またその変化した「緑色」ということが重視されたりしたことは否定出来ないと思います。


唐時代の古越州窯の「水注」

 わが国が出会った最初の青磁の作品は、おそらく飛鳥時代から白鳳時代の法隆寺に伝来した古越州作品の壺のややオリーブグリーン色がかったいくつかの作品であることが考えられます。越州窯は今の上海の南に位置している、中国でも最も古い青磁のふる里であり、中華料理には欠かせない紹興酒のふる里でもあります。昔からお酒を入れる器を作る歴史がやきものの歴史にもつながったのでしょう。この一連の古越州窯の壺作品は、法隆寺宝物館に2個所蔵されております。それは聖徳太子によって隋に派遣された小野妹子が太子のお土産に紹興酒を入れて持ち帰った壺ではないかと思われます。

 いずれにしましても越州窯の技術が経済的な高まりとともに、後の皇帝、貴族のやきものを作る南宋官窯に発展していったとも考えられます。その代表が幻の名品といわれた郊檀(こうだん)官窯の作品などに昇華されてゆくのでしょうか。


郊檀官窯の作品の陶片

上下の釉薬が3重掛けされ、青磁の色合いが深くなるように表現されている

 話を前に戻しますが、魚という動物は人間の再生と復活に関係する古代人たちの思いに
即した作品と考えられます。今回の漆絵三魚文耳杯も副葬品のようですし、下地の木の部分は相当にボロボロになりつつあります。見込みの漆絵魚文は古びた光を放っています。傷みが相当に見受けられ、手に持つと軽いですし、日本の鎌倉期や室町期にみられる古漆である証の断文(段文)とは違った味わいの断文が表れてきています。何といっても魚の絵が素晴らしいです。


漢の漆絵三魚文耳杯の魚文

 魚文の写実性という観点から観ても、サマラ土器では判明できませんが、メヘルガル遺跡出土の魚には縦線に鱗が描かれています。それがエジプトになると点で表現されています。漢の漆絵三魚文耳杯も鱗は点で表現されており、エジプトの影響のもとにあると推測されます。ヒレや尾の描きかたにもメヘルガル以来の類似した影響が強くみられます。

 中国古代史や思想史、特に老子、荘子には私も昔から魅せられています。殷周時代の晏子、戦国時代の楽毅にはじまって、漢時代の李陵や司馬遷、三国志の曹操や司馬懿(しばい)の活躍する世界に思いをはせると、血沸き肉躍る歴史とともにさまざまな美術世界の交流が目に浮かび、想像の世界がどんどん広がってゆきます。


中国南宋から元の青磁双魚文小皿
掌(てのひら)の骨董
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