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掌(てのひら)の骨董

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

掌の骨董109.平賀源内作「獅子舞香炉」・鳩渓サイン入・江戸時代中期


平賀源内作「獅子舞香炉」

 今回はエレキテルで有名で、破天荒な発明家として江戸時代の国内外の文化を含めて摂取して、日本の最先端を疾駆したスーパーマン、平賀源内(江戸時代中頃の人。生年: 1728年、死亡年月日: 1780年1月24日・52歳)の作品について書いてみたいと思います。


油彩画による平賀源内像

 まずは、発明家、蘭学者、医者、本草学(漢方学)者、地質学者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家そして陶芸家。源内は通称で、元内とも書きました。

 エレキテルで有名で「電気」に興味を抱いた日本人初の人で、実際に「電気」を体感した人でもありました。

 ここで少し回り道をせねばなりません。「電気」という原理の発⾒は、いつ、どこで、誰がなしたのでしょうか?それは今から2600年前の、ギリシャ人の中でも最も古い哲学者ターレスにより、琥珀(コハク)をこすり合わせたら細かいゴミがくっ付くことに気がつきました。


ターレス像

 これがいわゆる静電気の発見でした。コハクはむかし「エレクトロン(elektron)」と呼ばれており、そこから今の電気「electricity」という言葉が生まれたようです。源内の江戸時代中期にオランダからの書物やオランダ人の発音から「エレキテル」となったのでしょう。2,600年前から現代まで続く、電気の歴史の第一歩でした。また「静電気」そのものの存在を発見したのは、16世紀のイギリス人、ウィリアム・ギルバート(ウィキペディアによりますと、彼は16世紀のイギリス人医師で、物理学者、自然哲学者でもありました。合理的観点からコペルニクスの地動説を早くから支持し、当時支配的だったアリストテレス哲学とそれに基づく学校教育を積極的に拒絶したようです。医師としての仕事のかたわら、最先端の静電気、磁石の研究をおこなったという物理学者でもありました)。コハク以外のものをこすって試した結果、同じ現象が起こるものと、起こらないものを見つけました。ターレスの最初の発見から2,000年もの長い年月が過ぎて、ようやくコハクに起こる現象の正体、静電気が判明したのです。

 ただ、私が興味を持つのはギリシャ以前のエジプトにおいて「電球」を発明していたらしき壁画が残り、その起源は未だに不明だということです。


電球(フィラメント電球)らしきものを使うエジプト人のレリーフ 電気コードらしきものも描かれています。

 さて話をもどしまして、わたしは源内焼につきましては、これまでたくさんの作品を扱いましたが、皿類が多く、本来あまりにも大きな作品には興味がなく、本シリーズ「掌の骨董」くらいの大きさの作品が好きですから、本作は立体作品であり、香炉であれば、このくらいの作品はやむを得ません。この作品以上に手の込んだ作品は見ませんでした。

 源内は自分が気に入った作品のみに自筆サイン「鳩渓(きゅうけい)」を入れ、本作品にも彼のサインは胴の下に大きく入ってます。大量生産品の大半は印による押したサインです。私は尾形乾山指導による南淡路の珉平焼にも、三彩の作風において、影響を与えているのではないかと考えてます。


鳩渓のサイン拡大図

 源内焼は、江戸時代中期の1755年(宝暦5年)に源内の指導によって讃岐国の志度、及びその周辺で製作された交趾焼(コーチ焼き)にならって進化させたものと考えられます。交趾焼は中国南部で焼成された三彩系陶器で、明末から清朝にかけて広東地方で作られた華南三彩系の作品をいいます。もちろんその大元は「唐三彩」、「遼三彩」であることは言うまでもありません。

 源内焼は型による大量成形が多いようです。胎土は暗色で、そこに緑、褐色(黄)、紫、白土化粧などに低温焼成が可能な鉛釉薬を含めた釉薬が施され、そこにベンガラなどが加彩されました。

 特に型造りの香合は古くから「交趾香合」といわれ茶人に愛好され、源内焼はその人気と影響を受けた三彩系陶磁器の一群のことをいいます。磁器とは違い、低温焼成のため楽茶碗のように壊れやすく、実用性というより鑑賞本位に制作されたといえます。精緻な文様はすべて型を使って表され、世界地図、日本地図、欧米文字など、当時としては斬新な意匠も見られます。源内の興味と見識は広域にわたり、広く中国や日本の絵画の影響や西洋風の意匠も見られます。

 紀州徳川家のお庭焼きにも関係していたようで、ために源内焼は大名家や幕府高官などに収蔵されたこともあるためか、近年に再評価されるまでほとんど世に知られることはなかったようです。現在も美術館などより、個人の愛蔵家が所蔵していることが多いようです。

 源内は昔多かった男色家であったとされ、生涯にわたって妻帯せず、歌舞伎役者らを贔屓にして愛したといわれます。わけても、二代目瀬川菊之丞との仲は有名のようです。晩年に酔って殺傷事件を起こして投獄されてますが、あるいは衆道(男色)に関するものが起因していたかも知れず、人間くさい一面も見せてます。いまでは破傷風により獄死したとされています。

 日本で最初に『解体新書』を翻訳した医師・杉田玄白をはじめ、当時の蘭学者の間にも源内は知名度があったようで、玄白の回想録である『蘭学事始』は、源内との対話に一章を割いているほどであり、源内の医学知識がトップレベルであったことを窺わせます。源内の墓碑を記したのも杉田玄白で、こう記しています。「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」(ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや(貴方は常識とは違う人で、常識とは違うものを好み、常識とは違うことをする、しかし、死ぬときぐらいは畳の上で普通に死んで欲しかった)とあります。それほどに杉田玄白と仲がよかったのですね。源内の親友ともいうべき交友範囲の深さ、広さが分かります。

 1765年に、現存はしてませんが温度計「日本創製寒熱昇降器」を製作したようです。オランダの書物及びその原典のフランスの書物の記述からアルコール温度計だったとみられます。この温度計には、極寒、寒、冷、平、暖、暑、極暑の文字列のほか数字列も記されており華氏を採用していたと推定されます。


獅子舞香炉より

 土用の丑の日にウナギを食べる風習も、源内が発祥との説があります。この通説は平賀源内の業績としても最も知られたもののひとつといえます。

 また明和6年(1769年)には、今でいうCMソング、歯磨き粉『漱石膏』の作詞作曲を手がけ、安永4年(1775年)には音羽屋多吉の商品の広告コピーを手がけて報酬を受けており、これをもって日本における最初のプロコピーライターとも評されています。

 浄瑠璃作者としては福内鬼外(福は内、鬼は外)のペンネームで執筆。時代物を多く手がけ、また風来山人の筆名で、強精薬の材料にする淫水調達のため若侍100人と御殿女中100人がいっせいに交わるという話『長枕褥合戦』(ながまくらしとねかっせん)のような奇想天外な好色本も書いています。まさに玄白が嘆息したように、発想が常人のレベルではありませんね。

 初期浮世絵師・鈴木春信と共に絵暦交換会を催し、浮世絵の隆盛に一役買った他、彼の発案で江戸湯島で日本初の博覧会イベント「東都薬品会」が開催されたりしました。

 文章の「起承転結」を説明する際によく使われる「京都三条糸屋の娘 姉は十八妹は十五 諸国大名弓矢で殺す 糸屋の娘は目で殺す」も源内作との説があり、粋でしゃれた面白い人物であったようです。

 なんか今回の「獅子舞香炉」の赤い獅子の顔や足が履いてる草履や足袋を見ていますと、そんな源内のおどけたようなとぼけたような、あるいは反面鋭い眼差しをその獅子の眼を通して現代の我々を見ているような、そんな感じがしてなりません。


獅子舞香炉より

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