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掌(てのひら)の骨董

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

掌の骨董76. エミール・ガレ作「城と森と湖の小ガラス花瓶」(1)


エミール・ガレ作「城と森と湖の小ガラス花瓶」

 今回はしばらくぶりにガラスに登場してもらいます。日本人にファンの多いエミール・ガレです。


日本人にファンの多いエミール・ガレ(1846~1904)

 なぜガレが後期印象派の画家、特にゴッホやルノアール、セザンヌと同様に日本人に人気が高いかというと、彼らは日本の幕末から明治にかけて、年代的にいえば1850年前後に日本の浮世絵、印篭、根付、陶磁器に素晴らしさを見いだし、そこから日本芸術の精髄を学び取ります。ゴッホはあまりの芸術性の高さから日本への移住を試みたほどですし、日本の浮世絵から素晴らしさを学び尽くしました。その先に今のゴッホの世界的評価があるのです。浮世絵あってのゴッホといえます。


歌麿の浮世絵

 早くは桃山時代にポルトガルの船で日本に布教にやって来たイエズス会宣教師たちにより、日本の独自な文化や芸術は高く評価されて本国に報告されていました。特に日本人の勤勉さ、感心の高さ、研究熱心さ、独創性、集中力は高く評価されました。


浮世絵に描かれた黒船といわれた外国船

 その後鎖国によりオランダ、中国、朝鮮以外の国と国交を断ったため、幕末まで門戸開放はされませんでした。しかし徳川幕府の力の落ちた幕末の嘉永年間のペリー来航、文久年間の生麦事件から薩英戦争が起こりました。アメリカの黒船をかわきりに開国を迫られ、その結果ヨーロッパの最大の二大ライバル、フランス、イギリスによる二大国が日本の支配権をめぐり間接的に争い、結果的にイギリスが勝利した、それが日本の明治維新なのです。ちなみにアメリカは南北戦争が勃発して内政に力を入れるようになり、植民地争いから後退します。


長崎のグラバー邸

 大切なことですから明治維新について一言書いておきます。日本が舞台で日本人が主役を演じますが、天皇をおしいだいた薩摩、長州連合のバックにはイギリスのビクトリア女王の指示を受けた武器商人、グラバーがいて、大量の鉄砲や大砲を提供すると同時に作戦指導をしました。坂本龍馬が明治維新を推進したとお考えの方々がたくさんおられますが、龍馬はグラバー邸の屋根裏に匿われ、グラバーから直接作戦指導を受け、動いたにすぎません。司馬遼太郎さんは歴史家ではなく、あくまで小説家です。日本人が世界に誇る「明治維新」を悲劇の英雄坂本龍馬が成し遂げたとしたかったのでしょうか。
 一方「坂の上の雲」に登場する乃木希典と伊地知参謀長は司馬さんが書くとまるで無能、馬鹿扱いです。当時の将軍や参謀長は無能では到底成り得ません。司馬さんには古武士である歴戦の強者、乃木希典は理解できなかったのでしょうか?

 反対に日本陸軍参謀総長の児玉源太郎は、ドイツ陸軍の育ての親とされるメッケルも彼の能力に太鼓判押したスバ抜けた大秀才に描かれ、児玉が旅順攻撃に手を焼く乃木の代わりに一時指揮を取り、203高地の戦いを一挙に勝利に導いたように司馬さんは描きますが、史実にはそのような記録、事実は全くなく、あれは司馬さんの創作のようです。あれでは史実の乃木希典はあまりにも可哀想です。あの203高地をめぐる戦いは、第二次世界大戦後にアメリカが最も恐れ、抹消するのに躍起になった日本の武士精神、武士道、忠義、そうした日本の軍人魂そのものの勝利と評価されています。それ故に明治天皇は乃木を愛し、解任せず任務を続行させたのです。日本精神の総意であったのです。当時の日露戦争を現場で観た外人記者たちはこうした欧米にはない、乃木に代表される日本精神を極めて高く評価しているのがその証拠です。小説家司馬遼太郎さんは、日本人が長い歴史の中で育んできた、最も民族にとって大切であり、アメリカをはじめとした西欧列強が最も恐れた「大和魂」を、乃木をおとしめることにより崩壊させたともいえます。


フランス軍装の徳川慶喜

 一方幕府側にはフランスが背後で糸を引いてます。最後の将軍、徳川慶喜の遺影にフランス式最高軍装、あのナポレオン軍装した姿が写真に残されています。しかし、フランスはナポレオン戦争でもイギリスに敗退し、日本の明治維新の戦いでも敗退しました。天皇は返り咲き、幕府は消滅します。天皇家がイギリスの大学に留学し、イギリス王家詣でをするのは、維新後に返り咲きできたお礼とイギリス王室への親愛のあらわれとその慣例化したものといえます。今でもイギリス大使館は皇居に隣接した半蔵門の一等地にあります。フランス大使館とは大きな違いがあります。

 ヨーロッパの二大強国が日本を舞台に争ったのが明治維新の舞台裏だったのです。

 日本がかろうじて大国ロシアを相手に勝ったことは世界を熱狂させるとともに、国威発揚ともなりました。


エミール・ガレ作「一夜茸」ランプ(代表作・北沢美術館)

 エミール・ガレは裕福なガラス職人の家に生まれ、高度な教育を受けました、当時の浮世絵や日本芸術の影響を受け、その素晴らしさに開眼します。かれは生まれつき体が弱く、結果的には白血病で58歳で亡くなりますが、反面感受性は強かったようで、美しさの本流を鋭く見分け、日本の美術からその特質を学び尽くしました。かれの初期デッサンや作品にその「ジャポニズム」が伺えます。そのイメージは体の弱さに反比例し、彼を優れたデザイナーに押し上げました。そのデザイナーたる資質を芸術家に押し上げ変質させたのが、父親に仕えたガラス職人たちでした。王候貴族のための作品を広く制作していた父親の工房には多い時は数百人、ガレのデザイン作品が人気を極めた時は400人をこえる技術者や職人がいたようです。そうした世界最高峰の技術者、職人の分業的応援がなければガレ自身の体力では名声は勝ち得られなかったと考えられます。初期を除き、ガレが直接制作に携わることはなかったようです。現代流に言えば「アートディレクター」とでもいう立場に終始してものすごい量の作品を世に生み出しました。世界のアンティーショップには必ずガレの作品は所蔵されているといわれるほどですが、それだけ人気があり、彼を高みに導いた新しい芸術性がガラス制作にあった証でしょう。今回の作品も多くの代表作が制作された後期の小品の一つと考えられます。
 ガレや当時のガラス職人を魅了したガラスの技法はたくさんあり、次回に詳細に解説いたします。ガラスの歴史は人類の歴史といわれます。世界の四大文明といわれるエジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、黄河文明の文明としての認定は「ガラス制作」があったか否かによるといわれます。ガラスを作った痕跡、これが人類の「文明度」を計ったことになります。
 人類を魅了し続けたガラスの美。その長く人類と歩んだ歴史、制作してきたガラスの歴史の現代的頂点が「ガレガラス」があるといえると思います。

 ここで忘れてならないのは、ガレや後に有名になるドームやラリックも日本の芸術に触発されたということです。世界の芸術活動を牽引した「日本の芸術と芸術家」に我々はもっと敬意と誇りを持たねばなりません。さらにそうした風土を養成した日本の偉大な精神性を貶(おとし)めないようにしてゆきたいものです。国家はそうしたものにより成立しているのですから。
 次回をお楽しみに。


エミール・ガレ作「城と森と湖の小ガラス花瓶」

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