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掌(てのひら)の骨董

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

掌の骨董102.北大路魯山人最晩年作・銀彩志野武蔵野図皿(2回目)


銀彩志野武蔵野図皿

 人が「生きる」ということは、簡単なようで大変な情熱(生命力・パワー)が必要です。北大路魯山人のように、この世に生まれた時から父母がいない人はまずないと思います。魯山人は生まれてすぐに里子に出されるという試練を与えられ、稀有な人生のスタートを切りました。ただ一つ幸いだったことは日本の代表的な血筋であり歴史的、文学的、芸術的に活躍した藤原氏のDNAを引きついだということでしょう。

 人間はこの世に生まれ落ちて来るときは、どのような選択肢すら選ぶ余地はありません。宇宙における必然の中の「偶然」、生における「運命」といえます。どんなに厳しい人生と環境が待っていようとも、生まれ落ちた幼ない子は与えられた生を生き抜かねばなりません。

 今回は、本連載100回記念として書かせていただきました「北大路魯山人の作品・人生」の2回目となります。


大好きなビールを楽しむ北大路魯山人(平野雅章氏撮影)

 6歳で味を極め、誰にも学ばず21才で書道日本一の頂点に立つことは果たして可能なことでしょうか?
そこが私の魯山人研究の出発点でした。

 母の乳すら愛情すらも与えられず、親族にもまわりの誰にも祝福されず、愛されるどころか逆に忌み嫌われる「不義の子」として身寄りすらない孤独な寂しい誕生の試練を抱えて魯山人の人生は始まりました。

 愛されたことのない男が果たして本当に人を愛することができるのか?というところも探求したい点でした。

 しかし、彼の前半生を読んでいただきお分かりのように、魯山人はどんなにひどい境遇に遭っても決してねじれず逆境にめげることもありませんでした。幼く、日々苦しい中に「料理」の真髄を見つけ、更に早くも21歳で「書道」日本一になるなどの道を極めました。その後「陶芸」では2度辞退しましたが「人間国宝」にも推挙され、まぎれもないトップの芸術家として押しも押されもせぬ地位を確立しました。当然のことながら、出る杭は打たれるの喩えのように、正面向かってまともには論争できない魯山人を茶化したり、斜めから見たり、裏に回り揶揄する人たちがいました。


魯山人の「夢境」とサインした書

 しかし自分自身のひどかった人生の始まりの一時を顧みて、悪い道、横道にそれなかったのは「美術・芸術が自分を導いてくれたからだ」と言い切ったように、親のない魯山人を教育したのは学校の先生でも誰でもなく、まさに「味覚・美術・芸術」という創造の世界だったのです。


魯山人の織部長皿に盛った寿司。(まさに魯山人芸術の粋であり、彼が言うように「器は料理の着物」といえます。

 俗世間では成功者のアラを見つけたり、社会から引きずり下ろす時には「スキャンダル」と相場は決まってます。大半の魯山人にまつわる伝記や風評では女性にだらしなかったとあります。しかし、男には本能的に、誰にもそうした傾向はあるでしょう。


茶道の夜の茶会「夜咄」で、露地に置かれる「織部投火器」

 魯山人とて人の子、神様ではない訳で、そう非難された根本には彼が6回も結婚・離婚を繰り返したからだろうと推測されます。魯山人は戸籍上は筋を遠し、破綻した場合は速やかに慰謝料を払い離婚し、理想の女性に近づくべく新たに結婚しました。


2度目の妻、藤井せき(右)とその両親、魯山人

 魯山人は若いころ、憧れの「母親」に会いたくて、母が東京のさる男爵家に奉公していると人づてに聞き、母親に会いに行きました。しかし彼は母親から「なぜ今さら会いに来たんだ」と冷たくあしらわれます。母の愛を知らない魯山人には「母親・女性」は全く未知の存在であり、憧れであり、ますますその感は深まるのでした。

 子供のころ、他の子供たちがお母さんから優しくされたり、お小遣いをもらったりするのを見てきた魯山人には、いない「母親」の存在は憧れの的となりました。その瞼の母親は、会えばきっと「おお、よく来たな房次郎(魯山人の幼名)、苦労をかけたな、会いたかったよ」と優しく自分を抱いてくれるに違いない、そう思って金をためて東京まで出かけた熱意は凍りつき、打ちひしがれたのでした。


揮毫する最晩年の魯山人(76歳)

 きっと、未知なる「女性への憧れ」が大きく膨らみ過ぎていたのでしょう。憧れが強いほど、女性への理想が高いほど、挫折感は大きくなります。女性は、ロマンチストで夢みる男よりはるかに現実主義者・リアリストであり、魯山人の女性への「憧れ気分」は、結婚を繰り返す度に挫折したようです。最後の6回目には、素人女性ではダメだと観念し、芸者と結婚しますが、これは更に短い結婚生活で、一年そこそこで破綻を迎えます。「理想」は「現実」の前に無惨にも打ち砕かれたようです。一生かかっても「真の愛情」、理想の女性に出会えなかった魯山人は気の毒な男性だったと思います。

 美術も芸術も、料理も陶芸も彼なりに思うように作れたでしょう。しかし「女性」だけには翻弄され続けたようです。ドイツの文豪ゲーテではありませんが、男は終生、心のどこかで「永遠なる女性」を求めているのではないでしょうか。


陶芸において魯山人の代表作とされる「椿図鉢」

 魯山人理解に、以上述べたこの点は欠かせません。それからもう一点、「料理・美術・芸術」は魯山人にとって人生そのもの、生きる目的そのもの、至上のものであったということです。ある意味未知なる女性への愛以上の「愛」であったのかもしれません。彼にとってその犯すべからざる「聖なる至上の世界」を非難されたり、冒涜されますと、魯山人は烈火のごとく怒ります。他人には遊びごとである、いわゆる「骨董道楽」にしても、魯山人には命がけなのです。 わからないことは自分で学び、確かめ、長い時間をかけて実際に自分の眼で確認し、実践し研究し納得したことを誤って吹聴されてはたまりません。神聖にして犯すことのできない魯山人の「聖域」が「料理・美術・芸術」なのですから。さらにもう一歩進めますと、女性が彼の愛を得るには魯山人と同レベルかそれ以上の「料理・美術・芸術」の知識を持ち、対等ないしはそれ以上に理解し合い、論じ合える女性が魯山人の本当の憧れの「妻」になりうる女性ということになります。当然それは無理な話です。ですから魯山人の結婚は何度も破綻に終わったのです。

 したり顔して、間違ったことを得意げに話す輩に魯山人は噛みつきます。相手が権威者であろうがだれであろうと恐れる人物、権威、利害関係はありませんから、相手はかないません。ほうほうの体で逃げますが、やられた方の恨みは晴れず、裏に回り魯山人の悪口をはやし立てます。魯山人は女癖が悪い、囲ってるなどの調子です。そうした風潮がたまりにたまり、間違った理解の浅い風評が出来上がっていきます。こうした風潮を世間では「有名税」と言ってるようです。白崎秀雄の評伝「北大路魯山人」や、魯山人をモデルとした漫画「おいしんぼ」の主人公の父、海原雄山の「傲慢」な話が、もっともらしく現実味を帯びます。


今回の作品と同じに最晩年の1958~59年に制作された銀彩皿

 その魯山人の生真面目さの代表的な事件が民芸の理論を糺した「柳宗悦の民芸論をひやかすの記」に尽きるでしょう。五月書房から出てます北大路魯山人全集に掲載されてますから、是非図書館などでお読みください。「ひやかす」と題してますが、これは間違った民芸論をとことん論破した上に、止めを差すような鋭さを持っているといえます。魯山人絶好調です。


前回掲載作品・呉須掻落漢詩磁方器鉢

 前回の作品は磁器の最初期の作でしたが、今回の銀彩志野武蔵野図皿は魯山人の最晩年、死の1、2年前の作品です。観察しますと、この筆跡は震えてますから、本当に最期の最期の作品と言えるでしょう。

 最初、この出来上がったばかりの銀彩皿を見た人たちは、これは光り過ぎではないかと魯山人に言ったそうですが、彼は「あと10年したら(酸化して※著者注)いい味になる」と言ったそうです。

 もう魯山人が亡くなって64年経ちます。銀彩はますます渋さを増し、魯山人の世界を更なる孤高の高みに導き続けているようです。

 今回は魯山人の最初の磁器作品と最期の作品を紹介いたしました。


銀彩志野武蔵野図皿

参考文献・淡交社・山田和著・「夢境・北大路魯山人の作品と軌跡」(推薦図書)

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