愛知県共済

インターネット公開文化講座

文化講座

インターネット公開文化講座

掌(てのひら)の骨董

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

掌の骨董37.初期伊万里染付花文小壺


初期伊万里染付花文小壺

 今年最初の東京フォーラム・大江戸骨董市にでかけてみました。JR有楽町駅の東京駅寄りのフォーラム口から出て1分、目の前が骨董市です。日本の一等地である銀座にも近く、東京でも最高に便利な場所といえるでしょう。日本骨董学院で学んで骨董・古美術商になられた方々はたくさんおられますが、このフォーラムにも多くの卒業生さんたちが出店なさっています。新年ということもあり、挨拶は欠かせません。
 まあ、昔からお付き合いしている業者さんのお店も出ているので、行けば必ず回るようにしています。お歳を召されて廃業されたり、亡くなられたりした方も多く、寂しい限りですが、それを引き継ぐ中年勢力も健在で頑張っておられます。
 そうした中堅業者のお一人で古くから伊万里を扱っているお店を目指して行くと、5メートルくらい手前から今回の初期伊万里染付花文小壺が目に入ってきました。なんともかわいい小壺です。口が大半きれいに金直しされていますが、遠くから見ても雰囲気がいい。こういう場合はもう買うと決まったのも同然です。大きなガラスケースの上に置かれた小さな横長のガラスケースに鎮座して、一段と光彩を放っていました。その可愛いケースも付属しているとのこと。作品の首周りには二重圏線に囲まれた鋸歯文を思わせるベタ塗りの文様が大小交互に施され、真後ろに名所旧跡のマークに似た三点文が入り、正面には細い葉が繊細に、しかも優美にのびやかに気持ちよく伸びており、元禄のお皿の真ん中に描かれる五弁花にも似た描きかたで見事です。恐らくこうした初期伊万里に描かれた花文様の描きかたが元禄時代の五弁花まで発展していくのではないでしょうか。


元禄時代の五弁花

 この五弁花は後にというか、今から60年くらい前からロイヤル・コペンハーゲンの磁器に応用されて、流行するようになりました。応用されるというか、模倣されたといった方が良いかもしれません。伊万里磁器はオランダの海外貿易の船によって遠くヨーロッパに輸出されましたが、日本の文様や図柄はずいぶんとヨーロッパの磁器、特にマイセンをはじめとした磁器に影響を与えました。このことについては今後「柿右衛門様式」について書くときに詳しくご紹介したいと思います。いずれにしましても、技術の遅れていたヨーロッパでは焼き締め陶である炻器が主流で、磁器のように白く美しい色絵の入った焼き物は王侯貴族たちには別世界の芸術品。宝物だったに違いありません。それは熱狂的に受け入れられたという方が当たっているでしょう。光にかざすと太陽もぼんやりですが透けて見えるのも磁器の特徴で、炻器や土器には見られないものでした。


ロイヤル・コペンハーゲンの五弁花と唐草

 ロイヤル・コペンハーゲンは基本的には伊万里の唐草文を上手にアレンジしたものです。ヨーロッパ的な洗練された様式とコバルトによる美しい絵付け、硬質な磁器の技術を駆使して造られた優れたやきものといえるでしょう。もともと日本の伊万里を模倣して造られた磁器がロイヤル・コペンハーゲンですから、日本人たちに人気があるのも当たり前といえば当たり前でしょう。
 私は初期伊万里が大好きで、かなり集めてきました。陶片もたくさんあります。昔に集めた、割れたり大きくゆがんだり、くっついたりした陶片が沢山あります。


初期伊万里の陶片の一部
 初期伊万里は1610年頃に、現在の西有田、三代橋(みだいばし)駅の周辺の盆地を囲う山並みの裾野あたりで初めて作られたとされています。伊万里の歴史では1616年、元和2年に朝鮮から慶長の役(1597年から98年)で連れてこられた、いわゆる朝鮮帰化陶工の代表とされる李参平、日本名・金ヶ江三兵衛たちによって始まったとされてきました。しかし近年では初期伊万里の窯跡各所から発見されており、李参平以外にも試作品を作った陶工が何人かいたと考えられ、金ヶ江家に伝わる古文書の年代である1616年(元和2年)説より古い1610年頃という説になってきています。
 最初期は西有田の小溝下窯、小溝上窯、天神森窯や、やや奥の山辺田窯などとされています。これらの窯ではもともと唐津焼を製作しており、その窯で磁器を試し焼きしてできてきたのが草創期伊万里とされる、素朴な染付磁器なのです。

今では見なくなった草創期伊万里の陶片

 草創期伊万里の特徴は厚手で色合いもグレーに近く、藍色もくすんでいます。皿を窯の中に並べる時に、釉薬が下に張り付いてはがれなくなると困るので、砂を敷きましたが、草創期伊万里は、重ね焼きする為に、皿の見込みにも砂が4か所くらいに置かれ、そこに上に重ねて焼く皿の高台が乗ったのです。釉薬のかかった伊万里磁器を重ねて焼くためには見栄えは悪くても砂目にして焼くしかなかった、という唐津焼の1610年代の焼き方がそのまま草創期伊万里に受け継がれたということです。これも重要な特徴です。
 伊万里磁器は1300度になる高温で焼かれますが、なんとも失敗が多い。学者の中には磁器職人が多く日本に連れてこられたと主張される方がおられますが、こう多くの失敗例がある初期伊万里の割れた陶片を前にすると、相当彼らの技術は低かったのではと思わざるを得ないのです。専門家の磁器職人が多かったとするのなら、貴重な呉須を施した作品をこうもたくさん失敗させないのではないでしょうか。慶長の役で連れてこられた陶工はかなり多かったとされていますが、大半が陶器職人、いわゆる鶏龍山系の茶碗などを作る職人が多かったのではないかと思います。連れてくるときにベテラン陶器職人だけを選別しているはずです。日本では信長が茶道具の値段を利休に命じて上げさせたといわれます。なぜかといえば、本能寺直前、日本統一間近だった信長には統一後の問題が見えていたからだと考えられます。この時代、封建領主と主従関係にある武士とは「土地」で繋がっていました。働いて手柄をたて、土地をもらうことが「封建主義」の基本だったからです。


土もの、すなはち侘び寂び茶道具の代表「鶏龍山刷毛目茶碗」
昭和の天才茶人、益田鈍翁こと益田孝の旧蔵品、銘・花散里。

しかし、ご褒美に与える土地が無くなることを見通していた信長は、当座しのぎに刀剣や茶道具の値段を上げさせることで、領地をもらうのと同じくらい価値のあるものとして恩賞として与えようと考えていたのです。そして、日本を統一後、すぐに朝鮮や中国に侵略戦争を仕掛けることを計画していました。そのプランをきいていた秀吉は、信長が本能寺で倒れると、それを引き継いだに過ぎないのです。武士たちはより多くの土地を子孫に伝えるために、命を張って戦ってきたのです。秀吉の文禄・慶長の役は失敗に終わったため、武士たちは恩賞ももらえなかったのが、秀吉政権崩壊の要因ともいえるのです。大名は朝鮮出兵で負った出費の穴を埋めるために、李朝の土ものの陶工を連れてきました。当時の高額なやきものであった茶碗などは陶器だったのです。ですから、連れてこられた陶工は磁器の職人ではなく、即戦力としての陶器職人陶工が中心であったはずであるというのが私の考え方です。そうした鶏龍山系の陶器陶工である李参平が山で陶土を探している時にたまたま知っていた磁器の原料である磁石を発見したという訳です。こうして、もともと陶器専門だった職人たちが慣れない磁器を焼いたので失敗が多かったというのが私の考えです。
 その結果としての今回の小壺なのです。この小壺にはひょいとつまんで釉薬に浸けた時の指あとが作品の側面についています。これも初期伊万里における鑑定の「見どころ」とされています。


小壺の側面にみられる陶工の指あと。

 台風の後など、今でもこうした初期伊万里の窯跡を歩くと、きらりと草創期伊万里の陶片が顔を出していることがあります。


コレクションした、愛する初期伊万里の盃や皿たち。

染付山水鷺文五寸皿
掌(てのひら)の骨董
このページの一番上へ