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掌(てのひら)の骨董

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

掌の骨董105.海獣葡萄鏡(唐時代)


海獣葡萄鏡(唐時代)

 私は「海獣葡萄鏡」に取り分け強い思いがあります。日本の歴代天皇では天武天皇が好きで、私なりに研究してきました。そのきっかけは高校の日本史の先生が「日本史は壬申の乱(672年)に勝利した大海人皇子、即位して天武天皇が天皇制を強化して、その流れがいままで続いてるから、日本史はこの天武天皇までが大事だから、そこまでの歴史をしっかり学び、それとこれまでの124代の天皇(当時は昭和天皇)の名をすべて覚えよ」といわれ、実際に一年かけて壬申の乱までをみっちり話され、勉強しました。テストには、一面に印刷された歴代の天皇の系図の空欄100を埋めよというものでした。それはまさに大学のゼミのような授業で、おもしろく歴史に引き込まれました。今の高校授業では到底考えられないことでしょう。


飛鳥池遺跡出土の木簡に書かれた「天皇」の文字

 確かに天武天皇は強い指導力を持った勇猛な天皇で、歴史的に「天皇」という名称を使った最初の天皇とされます。壬申の乱に勝利し、旧勢力の力を一掃したため、天皇は絶大な力を確立しました。

 天皇はそれまでスメラミコト、大王、オオキミ、スメラギなどといわれてきましたが、天武以後は「天皇」と決まりました。それは藤原京飛鳥池から出土した木簡に記録されており、確定しました。最近の歴史学は非常に進みまして、わたしは以前にも書きましたが、学問的な姿勢を梅原猛さんから学び、歴史学は小林惠子の歴史学を手本にしてます。小林さんの本を最初に手にしたのは「高松塚被葬者考」(現代思潮社)で、様々な角度から、高松塚古墳は天武天皇の墓であると論考し結論しておられます。


著者の愛読書、小林惠子著「高松塚被葬者考」。高松塚出土の海獣葡萄鏡が本の表紙を飾る。

 その論考は興味深く、天武の出自から死までくわしく述べられ説得力があります。大半の歴史書は為政者に都合良く改竄されており、信用できない場合が多いものです。私が小林さんの説を支持する所以は、以上もありますが、特に研究範囲を大陸、中国、朝鮮、新羅、百済、高句麗、さらにシルクロード諸国からペルシャ、突厥、渤海、マツカツまで、いわゆる東アジア全域に広げ、古文献を調べて、当時の日本を取り巻く国際情勢から日本の歴史を再考されている点が特にすばらしいです。もしこの拙文を読まれている皆さんの中でご興味がある方は、ぜひ「高松塚被葬者考」を手始めに読んでみてください。本当の日本史を勉強されたい方に推薦いたします。アマゾンで検索できます。目からウロコが落ちるとはこの本のことです。

 以来私は小林さんの著作に長く親しんでおり、おかげでかなり歴史観が変わりました。その小林さんの「高松塚被葬者考」によれば、高松塚から発見された「海獣葡萄鏡」は天武天皇にふさわしく、かつ独自の鏡だというのです。天武の前半生は高句麗武将、盖蘇文(がいそぶん・父は通説の舒明天皇ではなく、斉明の前夫の高向玄理、母は皇極・斉明天皇と推定される)であり、漢皇子、大海人皇子と同人で、大陸を股にかけた勇猛な武将としています。中大兄皇子とは父違いの年上の兄とされてます。弟とされたのは父の身分の違いからと小林さんは指摘されてます。本来は天武が年上のようです。両者の妻であった額田王も策謀家で陰湿な天智より、男らしい天武に心ひかれて、彼との間には十市皇女がいました。


古代エジプトの遺跡より出土の鏡ケース

 さて日本に中国大陸から鏡が伝来したのは、弥生時代前期(約2,200年前)といわれています。 鏡は青銅(銅に錫を加えた合金)で、顔を映す道具というより、祭祀、特に太陽の光を反射する神秘的なものとして魔除けなどの儀式に用いられ、また有力豪族の権力の象徴として珍重されました。海獣の海は大海人の海につながり、水、竜神と深く関係してきます。海獣とは海外から来た獣という意味で、獅子すなはちライオンのことです。古代エジプトのスフィンクスに繋がります。


ギザのスフィンクス

 王はライオンのように強く逞しくありたいと、ライオンの胴体に自分の顔をつけました。中国では龍が伝説的に権力の、鳳凰が長寿を表すシンボルであり、皇帝の象徴でした。実在した獅子は王宮の門を守りました。今でも獅子は狛犬になりましたが、狛犬はもともとライオンが源流です。天武は海外事情に詳しい大海の人の名にふさわしく、ライオンすなはち獅子や中国皇帝のシンボルの龍を自分の分身と考えたのではないでしょうか。現に漢の高祖を自分に比しており、高松塚には四神として青龍が描かれています。

 ここで鏡の歴史を書いてみます。イソップ物語の犬のように、水に自分を映す水鏡から始まり、古代女性の化粧に欠かせない道具となり、毎日の化粧で当たり前のように使う鏡ですが、その始まりは天武の固執する水、海にも関連しますが、古代の人は水面に自分の姿を映していたと推測されます。日本各地にも姿見の池が残っていることからも、人類が最初に使った鏡は水面だったことがうかがえます。


薬師寺大池の水面に映る雲(筆者撮影)

 歴史的にはその後、金属製の磨いた鏡が作られるようになりますが、正確な起源は明らかではなく、技術的にも鋳造技術が誕生した「金属器時代(青銅器時代と鉄器時代の総称でBC3000年からBC2000年頃)」の文化的に最先端であった中東からエジプトの地域で考えられたとされます。当時の鏡は高価なもので、金や銀、銅、青銅、水晶などを磨いたものだったようで、女性権力者の化粧のために使われたようです。すでに古代エジプトでは、古王国時代(紀元BC2686年ころ~BC2181年ころ)の墓から鏡が出土してます。第11王朝(BC2133年頃~BC1786年)のレリーフには、鏡を手に持った貴女が描かれます。


勾玉(左二個古墳時代と右二個縄文時代)

 日本では「三種の神器」として尊ばれた「八咫鏡(やたのかがみ)」、ちなみに「三種の神器」とは「剣」、「鏡」、「玉」で、古来天皇の即位には欠かせない「神器」とされて伝えられています。似たような種類が権力者の古墳に副葬されます。

 引用元によれば、英語の「mirror(鏡)」の語源は、ラテン語の「mirari(英語のmiracle。驚く・不思議の意味)」「mirare(見つめる)」に由来するので、鏡はその内に不思議な霊力を持っていると考えられていたようです。

引用:「手鏡から望遠鏡まで~鏡の歴史と多様化」『試作.com』(2020.04.10)

 では鏡がなぜ具体的に神性を宿したかということを考えてみましょう。

 耀く太陽は古来崇高な神であり、農業や生活に太陽は欠かせない、人々を守る最重要な存在であり、太陽と同じように光るものには神が宿るとされてきました。権力者は自分は神の分身であり、そのことを家臣たちに証明するため、父王から国を引き継ぐ儀式として、晴れた日に先王の古墳の南側の前方部に家臣を並べて、自分は後円部前に立ち、手に鏡を持ち、太陽をキラキラと反射させ、家臣たちにあたかも選ばれた神の子であるかのように人々を驚かせたのでした。当時の人びとは手に太陽がキラキラ輝いたらそれはさぞかし驚いたことでしょう。新しい王は神であるとひれ伏したに違いありません。その光が邪悪なる魔神を遠ざけ、死後の世界を明るく照らし、安泰たらしめるために墓に入れられたのです。剣の輝き、鏡の強烈な光、玉の輝き、すべて死後を守る「護符」の役割を果たしたものといえます。


鏡作神社(奈良県田原本町)

 古墳時代(3世紀末頃または4世紀初頭頃~7世紀頃)になると、日本でも鏡作部(かがみつくりべ。鏡を作る工人)が鏡を製作。国産の鏡が増えていきます。その後は祭祀というより、貴族や上流階級の化粧道具として、技術が向上した江戸時代には、庶民向けの鏡が作られるなど、一般にも広まっていきました。

 海獣葡萄鏡の細部をみて行きましょう。葡萄はたくさん描かれます。実が一つの房にたくさん出来ますから、子孫繁栄を表し、また葡萄からは酒がたくさん出来ます。またギリシャでは酒の神バッカス神やディオニソス神が成立し、神話に登場します。人間は日常は裏の部分を隠して生活してますが、酒を飲んで酔うと本性があらわれます。そうした酒の持つ特性をギリシャ人は神と視たのでした。


たくさんの獅子たち

 また高松塚から出土した「海獣葡萄鏡」には 蝶、蜻蛉、鳥などが描かれ、鳥は死後に魂を黄泉の国に導き、蜻蛉は変身、すなはち甦るシンボル、再生のシンボルと考えられました。また蜻蛉は日本では戦国時代「勝虫(かちむし)」と呼ばれ、戦に勝つという縁起の良さから兜の前立や衣類にも染め付けられました。


「海獣葡萄鏡」

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