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掌(てのひら)の骨董

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

掌の骨董24.豊島龍山初代の将棋の駒


掌の初代豊島龍山作 王将駒

六段銘の入った玉将駒

 新年おめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 威勢よく勝ち進む年となりますよう、将棋の「王将」駒の中のそのまた王将、豊島龍山初代の駒に登場してもらいましょう。この駒は自分でいうのもなんですが、大変珍しい銘だと思います。私の知る限りにおいて写真でも本でも見たことがないからです。

 現代駒師の指導者的名人、熊澤良尊師は彼の畢生の名著「名駒大鑑」(1981年1月名駒大鑑刊行会発行)の中で「豊島龍山こそ近代駒作りの先覚者だと記憶してほしい。大正・昭和と逸品を数多く製作し、その作品の幾組かは戦火をくぐり抜け現在に残されており、好事家垂涎の的である。」と書かれています。一般的には龍山には初代の太郎吉と2代目の息子、数次郎がいると同時に他にも代作者がいたようで、どれが初代の作品か、2代の作品か、または代作の駒なのかの判定が難しいとされてきました。それが銘でわかったのです。

 昭和世代なら必ず耳にしたことのある村田英雄の空前のヒット曲、「王将」。その歌「王将」の主人公は言わずと知れた大阪の阪田三吉です。


阪田三吉(阪田三吉記念室より)

 三吉は家業の草履店を手伝いながら賭け将棋で腕を磨き、多くの映画ではハチャメチャな人生を送り女房の小春の犠牲の上に彼の人生があったように描かれていますが、じつはおとなしい、誠実な人柄であったと周辺の人が語ったようです。それでも当時はかけ将棋が当たり前の時代で、負けず嫌いな三吉もかけ将棋で腕を磨き、強い素人(アマチュア)の将棋指しとして大阪で大変有名になりました。この頃「大阪名人」と呼ばれていた小林東伯斎(江戸時代の名人・天野宗歩の四天王の一人)に教えを乞いました。1891年(明治24年)頃、当時もっとも強いとされた関根金次郎(後の名人)と堺の料亭一力で初対決し、惨敗。このことで阪田は自分の鼻を折られるとともに、自分の甘さを悟り、真剣勝負のプロの道を決意し、関根に挑んでいったとされます。後に阪田三吉は関根金次郎八段を破り、王将と名人位を受けます。そうした三吉も技術を磨き、関根も堂々と挑戦を受ける二人の勝負師としての生きざまに人々は感動するのです。勝負の帰趨は天のみぞ知るというところです。コンピューター将棋など、過去のデータの集積であり、そうした人間の生きざまの感動は伝わりません。私は勝負の世界では血の通わないコンピューター将棋や囲碁には大反対です。


関根金次郎(十三世名人・関根名人記念館より)

関根金次郎vs阪田三吉(中央・小野五平十二世名人)大正6年10月22日
(十三世名人関根名人記念館より)

 当時、その阪田三吉の目標だった関根名人から六段を免許された男が東京にいました。それが今回の主人公の駒師・豊島龍山初代でした。東京の浅草・三筋町に生まれた豊島太郎吉が本名で駒銘を豊島龍山と彫っていました。


豊島龍山初代太郎吉(名駒大鑑より)

 初代龍山と2代龍山の生没年は以下の通りです。(名駒大鑑による)
 父・豊島太郎吉(文久二年~昭和十五年九月没・82歳)
 息・豊島数次郎(明治三十七年~昭和十五年二月没・36歳)となっています。
これによると息子が先に亡くなって、父が7か月後に亡くなっています。
 父太郎吉は浅草で材木商を営んでいましたが、将棋がめっぽう強く、小野五平から大正五年十月に五段免許を、続く大正十一年三月に名人関根金次郎から六段免許をもらえるほどでした。当時はプロとアマの違いはなく、上の段の棋士と戦って強い者が有段者に認定された訳ですから、今でいえば実力プロ高段者の腕前。そうなるには、相応の時間を将棋に費やしたということを意味しており、六段をとったその代償に太郎吉は家業をつぶしてしまいました。阪田三吉も将棋はめっぽう強くても同じような生活破綻者だったと思います。家業が衰退した太郎吉は家をたたみ貧乏のどん底で谷中に移り住み、家計を支えるべく将棋の駒づくりに励んだようです。2代目の数次郎も父に劣らぬ名駒師で、幼少から父に代わって腕を振るったとされます。しかし自分より早く最愛の息子を突然に失った太郎吉の悲しみはいかばかりだったでしょうか。彼が半年後亡くなっていることを思えば、その悲しみの程がうかがえます。

 実は私の所有する初代の駒には玉将(ぎょくしょう)の下側面に「六段豊島作」、王将(おうしょう)の下側面には「水無瀬書」と彫られています。従ってこの駒の作者は達者な銘切り具合から当然の事ながら将棋六段である初代豊島龍山太郎吉であろうということになります。通常の「豊島龍山作」だけですと、本人か2代なのか代作なのか判断がつきにくいものです。今回の駒には六段銘が入りますから大正十一年3月以降、初代が64歳の時以後の製作になります。常識的に考えれば、かれが亡くなる昭和十五年九月までの18年の間に制作されたことになります。しかし大正十一年に六段位を取得して少しの間だけ自慢げに切ったものではないでしょうか。2代の数次郎も他の代作者も「六段・・・」とは切ることはなかったでしょう。こればかりは初代だけが切った銘であると確信できます。初代太郎吉は関根金次郎名人から六段をもらったときは誇りに思ってこの六段銘を切ったことでしょう。しかしその後、家業を傾けてからは、六段では一家が食べていけるほど勝負の世界は甘くはなく、それまでの高揚した気分も落ちて行き、六段銘を切らなくなったのではないでしょうか。ですから私はこの六段銘の駒は大正十一年から数年の間、厳しく見れば1年以内しか作らなかったのではないかと推測しています。


私が40年以上使ってきた愛用の駒 天童の名匠 一平作 菱湖

 私は高校に入学したとき、父から将棋を教えられて好きになりました。放課後は日がとっぷり暮れて用務員さんから帰らされるまで、教室で将棋ライバルと夢中になって指し、休みの日には東京千駄ヶ谷の日本将棋連盟の道場に出かけて指していました。社会人になってしばらくして三段の免許を谷川浩司名人からいただいたものの、やがて仕事が忙しくなったり、日本骨董学院を立ち上げたりで、将棋から離れていました。ここ数年また将棋熱が復活すると同時に、囲碁の初段を目指して目下勉強中です。もともと古いものが好きですから、駒も少しずつ集め、現在はこの初代豊島龍山の駒を含めて六組が手元にあります。その中でも気に入っているのは、今回ご紹介しました豊島龍山初代の六段銘駒と第44期名人戦で大山康晴永世名人と中原誠名人が蒲郡の銀波荘で対戦した折に使用された天童の名駒師香月作の巻菱湖書(まきのりょうこしょ)の駒でしょうか。
 大山康晴十五世永世名人のことばに「将棋上達の秘訣は『良い将棋盤と良い将棋駒を持つことだ』と説いています。それは良い道具を持つと、それを愛し大切にする気持ちがとりもなおさず将棋の道に深く進もうという原動力になると信じているからです」とあります。将棋に限らず、骨董にも同じことがいえるように思います。良いものを持つことがより高みに、より美しいものの世界に導いてくれるように思います。


第44期名人戦で使用された天童の名駒師香月作の巻菱湖書の駒

 また駒自体の木地の美しさという点では冨月作の孔雀杢島黄黄楊(くじゃくもくしまきつげ)の駒が、孔雀が羽根を広げたようであり、その美しい仕上げによる華麗な黄楊の杢目がとても気に入っています。


冨月作の孔雀杢島黄黄楊の駒

初代豊島龍山作の駒 将棋盤は愛用の榧(かや)の将棋盤

 碁の棋士では稀有な勝負師、故・藤沢秀行名誉棋聖が好きで、彼の碁の深みを知りたいと思っています。呉清源先生も好きです。初段が取れる前から藤沢永世棋聖の揮毫の入った碁盤、直筆扇子を収集し、厚さ12mmの本蛤碁石とともに愛蔵しています。

 実現したいことの一つにこうした藤沢秀行永世棋聖や呉清源先生について書けるように、それには彼らの打った碁の内容を少しでも知らねばならないので、頑張って初段を早く取得したいと願っていますが、道遠しの感があります。

掌(てのひら)の骨董
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