文化講座
臨床喫茶学:44
和食文化と喫茶・茶の湯―6
私は縄文時代には既に今日の基となる茶の木は日本列島に伝わっていたか、自生していたと思っています。
縄文時代では狩猟漁撈や採集が中心の生活でしたが、既に堅果類のクリ、トチなどの実が大きくて沢山実るような木を集めて竪穴住居の周囲に育てようとしていました。
青森の三内丸山遺跡にある六本柱からなる巨大遺構ではクリの木柱で太さが1メートルもあるような大規模な施設を築いたのです。
ウルシの木も既に5千年前の縄文時代には樹液を採取して利用しています。
クリやトチなど堅果類の実などを、縄文土器を用いて水や火を利用した調理加工を行い、保存するための竪穴まで工夫しました。
丘陵台地や山林を伐採したり、焼いたりして集落に適した環境を築いたりしています。
半農耕と言って良い堅果類を集落周辺で選び、森林を伐採や焼いて開くと日に照らされて、まず、最初に芽を出すのは茶の木だったのです。
焼畑の始まりだと思います。
埋葬土偶や列石、敷石遺構は万物の生命再生を一番大切にしていたと判ります。
それ故に、まず、元気よく成長する茶の木やその葉の強い再生力に注目したことは間違いありません。
我が国の今日に伝わる原初的な茶の利用は、狩人達が山間で山茶を切って火であぶって湯の中に入れて飲んだことです。
また、山茶を切って煮たり蒸したりした茶の木を日陰干しや天日干しして飲む方法が伝わりますが、こうした原始的な茶を飲む方法は縄文時代に始まったのだと私は思います。
縄文時代の遺跡である埼玉県岩槻市の真福寺貝塚で縄文晩期の泥炭層遺跡から茶の実が出土したと伝わっています。
その実が今日、失われているために疑問が持たれてはいますがその遺跡からはヒエ、アズキ、クワなどとともに茶の木の実が見つかったのです。
茶葉や実の利用がなされていた可能性は高いのです。
正倉院文書や平城京跡出土の木簡からは「荼」と記された資料があります。
当時はまだ、「茶」の字がなかった時代なのです。
中国の郭璞(276~324)が残した『爾雅』には今日の茶と考えられる「荼」は早く採り、「茗」は晩に採り、「檟」は苦茶(檟苦荼)とあります。
中国での「荼茗」は「菜部」となったり、「木部」に分類されたりして混乱があります。
茶の古い調理法としては「煮て
日本でも同様だったと考えられます。