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信天翁喫茶ワールド

信天翁(アホウドリ)喫茶主
医学博士 山中 直樹(宗直)

「ケガレ・ケ・ハレ」:喫茶・茶の湯のもう一つの道-9

日本への茶の伝来者は何時、誰か!

 日本の茶樹のDNA鑑定による調査によれば、2系列があり、一回目は奈良時代末期で朝鮮半島の茶樹と同型であり、二回目は室町時代で中国の杭州近郊の茶樹と同型だと前回に紹介しました。
 そうしますと従来の"定説"たる一回目とされる平安時代初期の最澄、永忠、空海らによる茶種伝来説、二回目の平安時代末期の栄西による茶種伝来説のいずれも「加上」の歴史であるとなります。

 最澄、永忠が帰国したのは6月であり、空海が帰国したのは10月。
 栄西が帰国したのは7月。
 つまり、帰国時期から言えば、当時では日本への茶種の伝来者として伝わる最澄、永忠、空海、栄西のいずれもが発芽する茶種を持ち帰ったとするには困難であり、DNA鑑定調査による年代とも一致しないことからも、従来の"定説"では無理だとなります。

 それでは伝来者は誰かとなります。
 奈良時代末期の興福寺一乗院跡からの出土品から、興福寺の入唐僧・行賀(729~80年)が茶を伝えたとする説が出されています。
 私は一回目型の茶樹が朝鮮半島型と共通することから、奈良時代初期の渡来者家系の行基が聖武天皇とともに茶に関する伝承もあり、既に日本に伝わっていたのだと考えています。
 平安時代初期の嵯峨天皇は815年に大和、山城、摂津、河内、近江、丹波などの近畿地域に茶を植えて献上するように命じたぐらいです。
 つまり、当時は既に、諸国に種子を植えさせるに必要な種子があり、栽培されていたことになります。
 平安中期の空也の友達である慶滋保胤が三河国の薬王寺(愛知県安城地域)にて茶園を見るほどに茶の栽培は全国各地に広まっていたのです。
 また、一回目の伝来である古くからの茶樹は宇治(京都)、足久保(静岡)、背振の地域(福岡域)に発見されています。
 鎌倉時代に存在したとされる茶園は山城の栂尾(高山寺)、大和の西大寺、相模の称名寺などの寺院が中心です。
 栂尾は室町時代の茶勝負(闘茶)ゲームでの本茶、西大寺は叡尊の大茶盛、称名寺は叡尊、金沢貞顕と関係が深い寺院が中心だと判ります。
 室町時代になると全国各地の荘園でも茶園による茶の生産は始まり、一服一銭の茶が庶衆に広まる程になっていたのです。
 また、飲んでいた茶は必ずしも中国型の餅茶ではありませんでした。
 平安時代では最澄の弟子・光定上人が山中で茶の芽を摘んで固型化させることなく茶葉として緑茶的な茶を既に飲んでおり、中国式の餅茶としてではない緑茶様の煮出す葉茶が用いられていたとなります。
 そして、平安末期では番茶の起源と言える古葉を煮出して飲んだり、染料として茶染めがなされていたのです。
 菅原道真が大宰府で飲んでいた茶は、そうした茶であり、庶衆も山野から茶葉を採集して飲んでいたのだと私は思います。
 鎌倉時代末期の茶好きで知られる金沢貞顕でも茶臼は持っていないほどで、中国より輸入された唐臼から鎌倉末期になって、ようやく国産の茶臼が作られるようになったとされています。
 栄西の時代は一回目の伝来茶樹の茶を薬研で引いていた"抹茶"を飲んでいたことになります。
 「喫茶養生記」でワザワザ茶樹栽培法を記述する必要がないほどに茶栽培は行われており、茶が養生延命の仙薬としての薬効を中心に説いたことが理解できます。
 一方では、施薬救病としての茶を行基、空也、叡尊、忍性らは積極的に導入しており、今日的に言えば貧者、病人救済や公共工事、社会福祉事業の協力者たちに振る舞って宗教の普及活動にも取り込まれた社会性、社会的意味を持って茶は続いていたのだと私は思います。

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