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信天翁喫茶ワールド

信天翁(アホウドリ)喫茶主
医学博士 山中 直樹(宗直)

「ケガレ・ケ・ハレ」:喫茶・茶の湯のもう一つの道-5

 私はハイカルチャー的な喫茶・茶の湯史よりも民衆生活に根ざした喫茶・茶の湯・食の生活誌に注目した掘り下げが必要であると思っています。
 しかし、民衆レベルの生活や喫茶・茶の湯・食についての資料があまり残されていないのが残念です。
 既に、奈良時代初期には百済からの渡来人家系である僧・行基、平安時代中期の菅原道真(845~903年)の京や配流されて貧窮生活の大宰府で喫茶を詩に詠い、市聖と言われ、貴賎を問わない口称念仏の始祖で、生涯を沙称で通した空也(903~972年)の施茶、オブク茶について取り上げました。
 行基、空也は民衆、貧者、差別された人達、疫病・病人を含めた衆庶の救い、救済に努めたのです。
 喫茶が薬用、栄養的な意味を持っており、貧窮者、病者や孤児などを救うための悲田院や貧しい病人、老人、幼児などのための施薬院で用いられており、施茶が行われていたと考えられます。
 平安時代の八世紀後半から九世紀には遣唐使の永忠、最澄、空海らによる喫茶や嵯峨天皇らによる中国文化趣味の喫茶が行われました。
 十世紀では「この世をば わが世とぞ思う望月の 欠けたることも なしと思えば」と詠った藤原道長(966~1028年)が病にあっての喫茶は天皇、公家層の仙薬的喫茶と言えます。
 しかし、一方では、空也のような村上天皇の病のみならず衆庶への施茶も行われており、今日の空也由来の寺・六波羅蜜寺に伝わり、正月3日間に振舞われる小梅と結び昆布の入った「皇服茶」に残されているのだと思います。
 当時は、お茶は貴重品で高価であったために衆庶は飲むことができなかったと言われていますが、山田新市著「日本喫茶世界の成立」や金明培著「韓国の茶道文化」などを読みますと、僧・行基の頃には、既に茶や茶木は日本社会に伝わっていたと考えられます。
 平安時代では最澄らが、平安時代末期では栄西らが茶種を我が国にもたらしたと言われていますが、実際には中国に渡った遣唐使や倭人、渡来人たちによって、既に日本社会に飲茶のみならず茶木は伝わり育っていたのだと私は思います。
 つまり、最澄や栄西ら有名人のお話は後世の「加上の理論」的物語だと言った方が良いと思います。
 当時では、茶の種子の寿命は短く、秋に完熟した種子は翌年の春には発芽となり、夏を越すと発芽は困難だったのです。

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