文化講座
幸せになる健康栄養食を食べるには-エピジェネティック(遺伝子調節)茶の湯・Epigenetic Way of Tea・・10 日常茶飯のリアルand/orバーチャル茶の湯-8 IT革命とコロナ禍で変わる社会と茶の湯
今回は茶の湯の歴史的な問題を考えます。
歴史的に喫茶文化が我が国に伝わったのは奈良時代で空海たちが遣唐使として持ち返り、嵯峨天皇が愛好したことに始まるとされています。
その後、歴史的な話題にはならなくなりましたが、再び登場するのは清盛が宋との貿易を積極的に行った時代です。
宋から貿易関係の人たちが福岡地域に移り住むようになり、茶を飲むために茶の木を植え、宋代の黒茶碗などを持ち込んで抹茶を楽しんでいました。
鎌倉時代に栄西が遣唐使としての帰りに茶の種を持ち帰ったことにより茶の木が日本に植えられたとの話は有名です。
ところが、当時は、夏を越えた茶の種は発芽しなかったのです。
残念なことに、栄西の二回の遣唐使としての返りでは夏越えの種しか持ち帰られなかったことになります。
当時の福岡では、すでに宋の人たちが育てた茶木があり、山には山茶が育っていたと考えられます。
それでは、なぜ栄西が茶種を持ち帰り抹茶文化の元祖として有名になったのでしょうか。
栄西は臨済宗の開祖であり建仁寺を開山した僧ですが、東大寺の勧進職にもなり出世をしています。
新しい宗派である臨済宗を発展させるために新勢力の鎌倉幕府や武士に近づいて勢力を築きました。
栄西は『喫茶養生記』を著して、文化に優れた神経質な第三代実朝が酔い止めやストレス解消で喫茶したことで知られています。
江戸時代の元禄に京都の表千家7代となった如心斎を中心に改革期であり、利休を元祖として遡って今日の三千家流の家元制茶道のスタートをしたのです。
その時代の高弟だった川上不白は江戸の豪商が持っていた「千利休の遺偈」を利休本家の如心斎に戻しました。
不白は千家流家元制確立や江戸での拡大のために多大な貢献をして特例的な江戸千家流の祖となりました。
その不白は千家流の新しい点前の工夫のみならず、抹茶文化の元祖を栄西からとしたのだと思います。
歴史的に利休は切腹したとされていますが、信頼性の高い第一級の資料を克明に研究した誠実な学者の中村修也(『千利休 切腹と晩年の真実』)は利休が切腹した事実はないと出版しました。
かくの如く歴史的に常識となっていることでも怪しいことはいろいろとあるのです。
デジタル時代となってコロナ禍と共に茶の湯文化も含めて喫茶文化は不白の時代以上の変革をしなければならないと思います。
日本の歴史は、歴史的事実と神話伝説が「日本史」で混合されている変な国です。
既成の歴史的事実と思っても歴史は時の権力や国などの組織の都合によって作られていることが少なくありません。
最近でもわが政府は資料改ざんをしたりして正確な資料を保存しようとしていません。
庶民や弱者側からの歴史正書が必要です。
中国の司馬遷は、愛妾に惑わされた皇帝に本当のことを進言したために宦官にされ追放されました。
しかし、その後に重要な資料に基づいた歴史正書(『史記』)を書きました。
今日の研究によっても『史記』は正しい歴史書であることが証明されています。
日本には「歴史正書」がないのです。