文化講座
「ケガレ・ケ・ハレ」:喫茶・茶の湯のもう一つの道-8
栄西と抹茶法
栄西が抹茶法と茶の実を我が国へ伝来させたと言われてきましたが、最初の伝来者としての栄西の役割は否定されています。
平安時代の最澄や空海が日本への喫茶・茶の実の伝来者だとするのと同様に、既に取り上げました「加上の理論」による江戸時代後期の加色による"語り伝え"なのです。
我が国の茶樹のDNA鑑定による調査では、日本の茶樹には2系列があり、茶実が伝来したとすれば二回あったことを示しています。
一回目の茶樹は朝鮮半島とも同型のものであり、二回目は中国の杭州近郊から伝わった茶樹と同型なのです。
一回目の伝来は奈良時代、二回目は室町時代と考えられ、菅原道真が大宰府で飲んでいた茶は一回目型なのです。
それ故に、私は、既に日本で渡来者家系である行基の時代には一回目型の茶を飲用しており、土木灌漑事業に賛同する人びとに振舞ったり、悲田院や施療所などでの施薬救病として民衆に飲ませていたと言いたいのです。
また、九州の日常で茶を飲み煩悶の癒しに用いていた菅原道真(845~903年)に続いた空也(903~972年)は、今日に「皇服茶」として六波羅蜜寺に伝わるように寺院で飲まれていた茶を疫病の治療や予防に用いていたと思います。
栄西は今日に伝わる日本最初の茶書「喫茶養生記」を記しています。
最初の部分で「わが朝日本、昔これを嗜愛す。昔より以来、自国他国ともにこれを尚ぶ」と既に我が国で広く茶が飲まれていたことを前提としています。
「喫茶養生記」には中国・陸羽の茶書「茶経」のように茶樹の育て方についてはふれていません。
菅原道真が飲んでいたように、既に茶園があり、ワザワザ栽培法を説明する必要は無かったのです。
そして、抹茶法を伝えたのは栄西だとされますが、11世紀末の九州では宋からの商人たちも住んでおり、抹茶を飲んでいたとの発掘調査結果が得られています。
栄西は茶書で抹茶法に特化しておらず、五種類の香の粉末を煎じた五香煎の飲用も桑葉とともに勧めているぐらいです。
平安時代での茶は施薬救済、仙境の境地や煩悶改善、寺院での僧の飲み物としてのみならず、仏前の供物としても広がっていました。
栄西は「末世養生の良薬なるや」と「五臓(肝、肺、心、脾、腎)を安んずべし」とあり「喫茶これ妙術なり」と茶が養生延命の仙薬として日本で愛用され尊ばれてきたことを既成の事実として書き始めていることからも、桑葉と同様に散茶・抹茶の作り方、飲み方を紹介して、当時、既に陸羽の「茶経」のように各種の茶が飲用されていたのです。