愛知県共済

インターネット公開文化講座

文化講座

インターネット公開文化講座

信天翁喫茶ワールド

信天翁(アホウドリ)喫茶主
医学博士 山中 直樹(宗直)

「ケガレ・ケ・ハレ」:喫茶・茶の湯のもう一つの道-7

 喫茶・茶の湯文化では、江戸時代に始まる「茶道」とか、「煎茶道」などはハイカルチャー(高級文化)と思われています。
 しかし、中世では茶寄合や一服一銭などと喫茶・茶の湯文化はローカルチャー(低級文化)として民衆が躍動した文化でした。
 我が国の文化は、上から目線の「加上の理論」的歴史が目立ちますが、文化も下克上によってニセ物と言われていた方が本物に変わって"高級"化した文化がほとんどです。
 今日で言えば、オタク・モエ、コスプレ、キッチュ文化がグローバル化した認知を得て本物に変わったりしたのです。
 中世に発達した歌舞音曲、能、喫茶・茶の湯、作庭などはその代表です。
 いずれも河原者、非人、神社での最低層の人達が担って発達した由来を持ちます。
 喫茶正史で言えば、平安初期に永忠由来で嵯峨天皇が唐趣味、仙境的喫茶を始め、宮中や畿内に茶の実や木を配ったとあります。
 しかし、当時、既に自生していた茶樹由来の実や木を育成させたのが実態だと言えます。
 平安末期になると"農業生産技術"は向上して余裕ができて、桑、麻、藍、漆などを栽培、手工業的な製品の生産も行われるようになり、賃仕事や生産物の商品交換を行って利潤を得る人達も出てきたのです。
 茶で言えば、既に821年には茶税が引き上げられたり、室町時代になると茶摘や茶商人による「茶座」も現れていました。
 中世寺社勢力で最下層の人達の活動が民衆的躍動を引き起こしたのです(伊藤正敏著「寺社勢力の中世―無縁・有縁・移民」、「無縁所の中世」ちくま新書)。
 我が国の民衆的な喫茶は、資料は十分とは言えなくも奈良初期に始まる行基-空也-叡尊と伝わる施薬救病として行われました。
 今日に残る六波羅蜜寺の皇服茶、西大寺の大茶盛と伝わっています。
 また、鎮護宗教たる奈良の東大寺、興福寺、比叡山・天台宗、高野山・真宗を頂点とする祇園社、東寺、日吉社、北野社などで伝わる門前の"一服一銭"の茶は神事・祭礼と不可分の芸能として広まったのです。
 一服一銭の茶は、単に「喉の渇きを癒す」だけではありませんでした。
 宮籠(ミヤコモリ)、犬神人、行人などと呼ばれて最下級の人達が松囃子、鉢叩、声聞師など雑芸能の従とは密接不可分の存在であった人達によって門前の抹茶や煎物売の茶屋を開いたのです。
 「祇園社大政所絵図」では大政所境で湯立神事が行われ、門前の大鳥居の左右での一服一銭の掛茶屋の図として当時を知る代表的な様子が描かれています。
 男女が民衆的躍動をする姿です。

信天翁喫茶ワールド
このページの一番上へ