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信天翁喫茶ワールド

信天翁(アホウドリ)喫茶主
医学博士 山中 直樹(宗直)

「ケガレ・ケ・ハレ」:喫茶・茶の湯のもう一つの道-3

 ハレ(晴)、ケ(褻)については、その概意は、皆さんもご存知とは思いますが、その整理をしておきたいと思います。
 広辞苑によれば、ハレ(晴)は表向き、正式、おおやけ、公衆の前、ひとなかとあり、空の晴れること、日のあたる所、広々と晴れやかな所、晴れがましいこと、晴れ着を着たようになどと続いて、疑いが消えることなどとなっています。
 ケ(褻)は、公ではないこと、よそゆきではないこと、普段、日常、わたくしなどとなっています。
 民俗学・文化人類学的にはケガレの意味は学術的な議論となっているのです(「共同討議 ハレ・ケ・ケガレ」桜井徳太郎ら、青木社、「ケガレの文化史―物語・ジェンダー・儀礼」服藤早苗ら、森話社、「ケガレの民俗誌 差別の文化的要因」宮田登、筑摩書房)。
 ハレとケは、ヨソユキとふだん/祭りと労働/聖と俗/非日常と日常などとして二元論的解釈が紹介されますが、今日では二元論的区別が困難となっている状況があります。
 そして、両者の媒介項として「ケガレ」の概念が取り上げられるようになりました。
 しかし、「ケガレ」については常にハレ・ケと言うカテゴリーとの関係ではない学術的議論ともなっているのです。
 つまり、ケガレに清浄/汚穢ノ浄・不浄の二項対立的な理解ではなく、危険性/創造性の両義的な力や二律背反ともなるパワーを認めた「ケガレ」論の方向性となっているのだと思います。
 ケガレは西日本の地域を中心とした賤民差別視の起源や理解を脱して、今や差別の歴史的理解と差別意識の解体をして乗り越え、日本社会の深層に根ざす「ケガレ」をアミニズムの重要な内的理解や万物・自然からのエネルギーとして私達の生活律に取り込むのです。
 この世の日常・非日常にあって、健康で文化的な生活を創造し、楽しむためにレトロ&モダンのケガレを生活律とするのです。
 ハレ・ケは状況で、それぞれの人による主観的な思い、認識によって変わります。
 ケガレは「褻枯れ」「気枯れ」「気渇れ」とすれば気のエネルギーの枯渇状態を内在する多義性があるのです。
 しかし、ケガレは生きている灯、証として自らの価値観で、すべてを肯定するとニーチェ的なルサンチマン的感情・心情状態から解放される転換となり、生きていることが生活律として喜びとすることが出来ます。
 そして、私は喫茶・茶の湯は、「気」のパワーを満たす媒介項として、まさに、レトロ&モダンのケガレ・ケ・ハレの生活律文化となるのだと思います。

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