愛知県共済

インターネット公開文化講座

文化講座

インターネット公開文化講座

シリーズ 骨董をもう少し深く楽しみましょう

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

春日古道を歩く 春日盆のふるさとを訪ねる

 古き奈良の都には古道として名高い道はたくさんあるが、意外に知られていないのが、春日原生林を貫くいくつかの古道である。今回はその一つを訪ねてみよう。


新薬師寺から春日古道に向かう

 奈良で私がよく訪れるのは、新薬師寺の国宝・塑像の十二神将像である。このすばらしい仏像を本当に至近距離で、ガラス越でなく直接拝見できるのも、ここの最大の利点である。心ゆくまで拝観させていただいた後で、新薬師寺周辺の古き奈良の都にふさわしい、時代を感じさせる古びた築地塀のある道を歩き、右奥に白毫寺の杜を見ながら春日大社の方向に歩く。のんびりとしたいい道である。そして古道の入り口に至る。


趣のある春日古道

 新薬師寺は最近まであまり宣伝されなかったとても静かな雰囲気をたたえた名刹として、私の大好きな寺の一つである。「新」と名前に付くから新しいと思う人たちが多いようであるが、この寺の創建は古く、東大寺を創建された聖武天皇が病弱であったため后の光明皇后が天皇の病の回復を祈念し、薬師如来を祀って新たに建てた寺である。白鳳時代に天武天皇の建てた薬師寺よりは新しいという意味程度であろうか。
 このお寺には駐車場やバスが回転するスペースが少ないため、観光ルートから長くはずされていた。そのためかとても静かで落ち着いた境内である。観光客が極めて少ないためか、国宝の塑像の十二神将像や鎌倉時代の本尊、薬師如来をゆっくり拝観できるというメリットがあったが、最近JRがポスターなどで宣伝し始めたこともあり、やや賑やかさをましてきたが、そうした今でも上記の理由で、いわゆる残された「穴場」の一つの寺であることに変わりはない。


春日大社原生林

 今回の古道の中心をなす春日大社の歴史をひもとくと、古代の豪族、藤原鎌足に始まる藤原氏の氏社として知られ、明治維新以前は隣接する同氏の氏寺である興福寺と一体の存在であった。興福寺は美術史上、名高いが中でも鎌倉時代の名仏師、運慶の代表作である無着、世親像で有名である。特に無着像は感動的な作品である。また近年、東京国立博物館で催された、「興福寺展」で人気の高かった天平時代の脱活乾漆の名仏、阿修羅像を所蔵している。私はかつての山田寺にあったいわゆる「山田寺仏頭」(国宝指定)も好きだ。この仏頭を観ていると、はるか彼方を凝視する視線の先に、唐文化を越えてエジプトのファラオの姿が彷彿としてくる。中国の唐文化そのものが西域の文化によるところが多い以上、当然といえる。
 また奈良にもエジプトの影響を受けたとされる「ピラミッド」が奈良ホテルのすぐ近くにあることは、あまり知られていない。民間の所有地であったためでもあるが、近年公開されているので、春日大社、新薬師寺のすぐ近くでもあり、一度は訪ねてほしいところでもある。

 さて興福寺には藤原鎌足の死後、当時は官寺がすべてであった中、特に許されて藤原氏の私寺、山階寺として誕生した歴史がある。その藤原氏の氏神様が春日大社である。伊勢神宮も同じであるが、春日大社では20年に一度建て替えを行う式年造替がある。この時に春日大社の調度品並びに祭器具の調製も新たに行う。すなはち古いものから新しいものへのつくり替え、変換が行われる。春日盆もそうした祭具の一つとして折々古いものは氏子へ流れたりするのである。そうした経緯から春日盆などの漆器や祭具が民間に流布し、その一部が古美術市場に出るということになる。

 今回写真に掲載した「春日大盆」は室町時代の盆であるが、非常に大きく53.5センチの大きさを誇る。漆の塗りの下地には麻が敷かれ、その技術の源流としては天平時代の脱活乾漆の技法を思わせるすばらしいものだ。通常の朱色の漆塗りの下には黒漆を塗るが、そうした塗り方の作品を通常は「根来塗」という。和歌山県那賀郡岩出町根来にある真義真言宗の総本山である一乗山大伝法院根来寺(俗に根来寺)で什器として使われていた漆器を江戸時代前期に「根来」ないしは「根来もの」として珍重したことに由来するという。


春日盆 室町時代 直径53.5センチ


裏に螺鈿の花唐草が施されている

 現在では中塗りに黒漆を、その上に朱漆を塗り乾燥後、表面を研ぎ出し所々に黒の研ぎ出し模様を作為的につけた漆器を総称している。しかし発祥の頃は、作為的に研ぎ出しをしたものではなく、日常雑器として長い期間、僧たちの食器として使用している間に表面の朱漆が擦り減り中塗りの黒が表面に模様としてできたものである。
 現在売られている根来塗りには、地名をつけた「京根来」「奈良根来」「吉野根来」「薩摩根来」「堺根来」、色により「黒根来」、「青根来」、塗り方により「刷毛目根来」「布目根来」などがある。朱色の下に黒がすれて出てくる、その味わい、いわゆる古雅な風合いが「根来塗」の愛されるゆえんである。
 現在、私は二枚の「春日盆」を持っているが、何れにも裏面に螺鈿の細工があるのが特徴である。裏に白蝶貝の螺鈿を入れるなんて、なんと奥ゆかしいものかと思ったが、良く考えたら神饌を捧げる盆であるから、表には装飾をせず、人間には見えなくても裏面の螺鈿の美しい花唐草や蜻蛉、蝶の文様を神は見透せるということなのであろうか。丁寧な盆の口縁の細工。すなはち麻で下地をきれいにしっかり作り、そこに漆を塗ることが、これもまた神のみぞ知る手を抜かない手仕事の神髄ともいえる。能登の山奥の古い寺院に伝来する「合鹿碗」もそうした塗りの一種でもあろう。

 興福寺といえば朝廷に対する威圧として「強訴」が有名である。
 興福寺の衆徒が自分たちの要求を通すための強訴(ごうそ)を行う際には、春日大社の神鏡を取り出して神木にあつらえ、これをもって強訴の予告を行う(神木動座の強訴という)。予告によって要求が認められればそれで終わるが、それが通らない場合は神木を興福寺金堂に移し、古き神宮、明神などにも神輿の派遣を要請、更に場合によっては東大寺などの南都七大寺にも支援を要請する。春日大社社司・神人に神木を奉じさせて衆徒・神人が法螺貝の音とともに隊列を組んで京都に向かい、御所の前に神木をかざして朝廷を威圧したという。なおも、要求が認められない場合には神木を京都に安置したまま社司らが奈良に引き上げる、いわゆる「振り棄て」で朝廷に心理的圧迫を加えたという。
 この春日神木の動座が行われた場合、藤原氏の公卿・官人が朝廷の過半を占めていたこともあり、神木の入洛中は朝廷は麻痺して国政は滞った。また、武家も衆徒・大衆に武器を向ければ、今度はその武家を死罪・流罪などの重罪に処する様に求める強訴を引き起こすことになるため、最終的には興福寺側からのどのような無理な要求でも罷り通ったのである。これを「山階道理」(山階寺は前に述べたように創建当時の興福寺の名称)と呼ばれた。
 神木入洛強訴の初見は安和元年(968年)に発生した東大寺との抗争とされる。藤原道長の『御堂関白記』にもそうした「強訴」についての記述も認められ、ひんぱんに行われていたようだ。「強訴」は院政期から鎌倉時代にかけて行われたというが、乱世である戦国時代に入ると、神木動座を行うこと自体が困難となり、文亀元年(1501年)を最後に姿を消すに至ったという。

 春日大社は、古都の緑の中に朱の柱が映え、白い壁そして自然の桧皮(ひわだ)の本殿、社殿が端麗な姿で美しい。私はかつて興福寺境内と春日大社神殿で行われた「薪能」を二日にわたり拝見して、その社殿の清々しくも尊厳な気の中に神さまの大きな力を感じたことがあった。
 そして今なお、古と変わらぬ神聖な姿を保ち、神威を発揮されているのは、20年に1度、本殿以下の諸社殿を建て替える、式年造替が連綿と行われてきたからに外ならない。平成27年に予定される建て替えは創建以来第60回目の造替にあたるという。

 遙かな歴史の中にある春日大社、多くの寺院。そこには今なお色あせない日本の文化が息づいている。興福寺の僧たちが春日大社参拝のおりに歩いてきた歴史の古道が今もある。歴史と美術、文化の古都、奈良。春日盆のふるさとをまた訪れて、原生林の古道を歩きたいと思う。


かつて興福寺の僧たちも春日大社参拝に通ったという古道

シリーズ 骨董をもう少し深く楽しみましょう
このページの一番上へ