文化講座
弘法大師空海と鉱山探査
修験者たちの一部は鉱山技師という説
山は豊かさ、再生のシンボルであり、天とのつながりから神的な領域とも解釈されるとともに、そこは神々からの賜り物である金、銀、鉄、銅、水銀など豊かな金属を埋蔵している場所でもありました。
この山で修行を行っていた山伏は、「山武士」との関係のある言葉ではないかと私はかねがね思っています。主の密命をおびた武士が身なりを修験者に変えて修行と称して山に入り、隠密裏に伏す、すなはち山伏となって、金銀をはじめ貴重な金属を探し求めて山を歩き回っていたのではないかと思います。
考えてみれば、ホラ貝は金属探査中の仲間同士の連絡に好都合です。笈(おい・修験者などが衣服や食器などをいれて背負う足のついた箱)には金属探査に必要なハンマーや、さまざまな掘削道具類を隠し持っていたのかもしれません。仏教でいう錫杖(しゃくじょう。長い鉄の細い杖で頭部に鉄の輪が付いている)もそうした探査道具の一環であったのかもしれません。
奥州藤原氏の金山開発や佐渡の金山などを見るまでもなく、全国各地に貴重な金属が眠っている可能性は認識されていたはずです。こうした鉱山を探索する活動が活発に行われているのは、むしろ当然といえるでしょう。
古来、仏教を国のイデオロギーの基礎としてきた日本では、仏像やさまざまな仏教法具に銅を多用し、また武器としての刀剣や甲冑、武具に良質な和鉄(わずく)を必要としました。こうした金属を産出する場所は権力者にとってきわめて重要な場所といえるのです。ですから鉱業部民(べみん)といわれる特殊専門集団がいて、彼らが鉱山開発や精錬技術を司ってきたと考えられます。
空海と鉱山の不思議な関係
山岳密教の修行をしていた若き日の弘法大師空海は、そうした鉱業部民たちと交流していた可能性は高く、彼は水銀を含めた鉱物資源が政治的、経済的にいかなる重要性を持っているかを十分理解していたのでしょう。
『真言密教と古代金属文化』(東方出版、共著)によると、高野山や四国遍路霊場の主要地域は、銅鉱山と水銀山のすぐ近くに存在し、また高野山金剛峯寺のすぐ下は金、銀、銅、水銀の宝庫であるということが確認されているということです。すなはち重要な天然資源の眠っている場所を聖なる場所として、そこに寺院を建立したとも考えられるのです。古来から山が聖なる場所であり、資源の宝庫と考えられてきたゆえんです。
大日如来の支配する宇宙と秩序ある自然の摂理、そしてその結果生まれた地球地質学とが経験的に結びつき、空海の鉱山への関心と政治的、経済的な効果への期待が高まったのではないかという、著者のひとり本城清一氏の指摘は、まさに慧眼です。これに加え、当時人々の現実的な苦しみを取り除く薬物としての水銀や丹の効果にも空海は着目していいたのでしょう。
真言密教本山である高野山の堂塔建設や京都の東寺(教王護国寺)の建立を実現した原動力は、空海の思想に共鳴した彼を取り巻く多くの弟子、信者などの情熱だったわけですが、その一方で嵯峨天皇の支援なくしては実現しませんでした。この支援を取り付けた背景に、鉱山という重要な地域を押さえることで得られる政治力や経済力があったとしたら、空海の歴史的位置づけには、もう一つの側面が加わることになるでしょう。
空海は、修行する中で専門知識を持った鉱業部民らに出会い、そうした集団との関係から貴重鉱物や水銀を手にしたと考えられます。
最澄と同じ遣唐使船に乗り、中国で恵果阿闍梨(けいかあじゃり・唐時代の真言僧で第7祖。阿闍梨は「師匠」を意味するサンスクリット語)から密教の法門を継ぐ8代目として伝灯大阿闍梨位を受け、多くの経巻や密教法具を授けられたといわれます。また別に多くの密教法具を求めて来たともともいわれます。その財力も鉱山探査によって得た金銭の賜物だったのかもしれません。
当時、水銀は青銅などの仏像に水銀アマルガム法を用いて、鍍金(メッキの技術)して、金銅仏を作るために必要な貴重なものでしたから、きわめて高価であったと考えられます。現実に中国で密教法具を購入するためにも、高額な金銭を必要としたでしょう。僧侶とはいえ空海にはそうした折りに金銭は現実問題としてなくてはならないものであったはずです。
空海は自然の流れの中で「一即一切、一切即一」(一つのものはすべてのもの、すべてのものはひとつのもの)を実践していったのではないかと思います。空海の偉大さを感じます。
鉱物資源と美術品、工芸品は切っても切れない関係にあります。古美術・骨董を学んでいくにあたって、いにしえの人々にとって鉱物資源はどのような存在であり、どのように手に入れていたかを考える視点は是非とも必要なものといえます。
弘法大師空海の真言密教の重要な仏像である『不動明王像』(平安時代前期から中期)