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日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

古美術をみる眼3 「歌舞伎と浮世絵」

歌舞伎の発生

 前回、出雲大社の巫女出身といわれる出雲の阿国が、京都でかぶき踊りをはじめて人気を得て、これに簡単なしぐさ、振り付けを加えて生まれたのが「女歌舞伎」であることをお話させていただきました。これは後に、浮世絵の成立とも深く関係してくる、美術史上の非常に大きな出来事になりました。「かぶく」とはかぶく、すなはち「傾く」という言葉から生まれたものです。その意味は常軌を逸したふるまいや身なりをするということで、そのもの珍しい姿が大いに人気を呼びました。
 歌舞伎は女歌舞伎の成立から始まりますが、女性であることから演技がエスカレートし、遊女のレビユーのような様相を呈してきたため、幕府は風俗を乱したとして、1629年(寛永6年)に「女歌舞伎」を取り締まります。
 そこで次に登場したのが少年を中心とした「若衆歌舞伎」でした。しかし、これもまた大名などの男色(ホモ)の対象となって風紀を乱す事態になったため、17世紀の半ばに禁止され、それ以後、少年を除いた中年男子だけによる歌舞伎に変化してゆきます。これを「野郎歌舞伎」などと呼んでいます。日本ではそれ以後「女形」という特殊な役が出現し、明治時代になるまで女性の役者が存在しなくなるのは、こうした理由によります。

浮世絵師への弾圧とかれらのレジスタンス

 女歌舞伎、若衆歌舞伎など、風俗の乱れの元兇とされた歌舞伎に、さらに追い打ちをかけたのが「江島・生島事件」でした。1714年(正徳4年)、江戸城の奥女中・大年寄の江(絵)島が山村座の役者、生島新五郎となじみを重ねたことが発覚、江島は信州、生島は三宅島に流罪となり、山村座は取り潰され、関係者1000名以上が処分されるという事件が起きました。この大奥の艶聞から始まった事件には将軍継嗣問題や、本妻グループ、側室グループなどの権力闘争が背後にあり、問題を更に複雑にすると同時に、大きくしてゆきました。実は、ことが幕府内部の処断で終われば問題無かったのですが、歌舞伎の役者絵を描いていた浮世絵師たちにも飛び火してきました。当時、有名であった懐月堂安度(かいげつどうあんど)という、美人画で有名な浮世絵師も大島に流罪になっています。この作者は、肥痩の線によってなまめかしい女性像を描いたりしましたが、それも歌舞伎同様に風紀を乱すとして取り締りの対象になったのです。
 浮世絵の中には、男女の秘画といわれる「春画」というジャンルがあります。私はこの春画の隆盛は、こうした幕府の不法介入に対する浮世絵師たちのレジスタンスであったと思っています。その作者の中には自分の名前の一字だけをさりげなく刷り込み、幕府を挑発するようなそぶりも見えます。春画の中には、その作者の代表作とも言えるような力の入った作品も多く、そこに幕府への抵抗の姿勢がみて取れるのです。

身分制度の崩壊のきざし

 ではなぜ、幕府は風俗をこうも厳しく取り締まったのでしょうか。徳川政権の維持に大きく貢献したのが「武家諸法度」です。これは幕府が武家の統制のために定めた法令で、1615年、大坂夏の陣直後に発布されたものです。13箇条から成り、武士は文武に励み、品行を正し、倹約に努めるといった生活上の戒めから、国主の人選の規定、朝廷への参勤作法などの政治的規定までを含みます。ことに大名を統制する法として、幕藩体制堅持の根幹を成していきます。それに一国一城主義、更に儒教(朱子学)の教え、そしてキリスト教の禁止が加わります。中でも朱子学には官学の地位を与え、封建教学として重んじました。
 華美を嫌い、贅沢を避ける儒教道徳は、士農工商の生活全般に浸透しました。しかし、年ごとの収穫に左右される米経済の行き詰まりと商業の発達、さらには粗悪貨幣の大量発行と、それにともなうインフレの助長などによって、元禄期以降、江戸の経済は大きく後退し、それを手当てするための場当たり的な改革によって、幕府の土台は次第に大きくゆらぎます。
 元禄の華やかな文化を背景に、大名は華美を極め、商人から借金をくり返し、商人の優位が次第に明らかになってきます。米相場や商品の値上がりによって、ますます商人の社会的地位は向上したかに見えますが、バブル経済の破綻によって豪商は衰退します。
 かわって農民、一般町衆、庶民が力を蓄え、彼らの意識の中で身分制度の崩壊が進行します。浮世絵師たちのレジスタンスにも、こうした時代の後押しがあったことを見逃すことはできません。


美人画の巨匠・歌麿の作品

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