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インターネット公開文化講座

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シリーズ 骨董をもう少し深く楽しみましょう

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

古美術の楽しみ方 古美術の背景を歩く 唐津のふるさと岸岳を訪ねる

 お茶人たちの間では「一楽二萩三唐津」といわれる茶碗のランキングがあると聞きます。これはお茶碗の人気度と理解されますが、語呂もよいところからこのように言われるのではないかとも考えられますが、いずれにしても唐津やきの茶碗は人気が高いということに変わりはないでしょう。
 唐津やきの始まりは最新の研究では1580年ころとされていますが、故12代中里太郎右衛門さんはもっと早い時期に朝鮮陶工は来ていると言われていました。しかし現在のところ1580年を遡る確実な出土資料はないので、学術的には上記年代とされています。

 秀吉による朝鮮出兵、即ち朝鮮の陶工たちが多数日本に連れてこられたという、いわゆる「文禄・慶長の役」は1592年と1597年とされていますが、その12年前に唐津やきは成立していたことになります。もっとも古墳時代から須恵器は朝鮮の技術者たちによって始まり、その後もかれらの伝えた焼き物の技術は日本で繁栄をむかえ、須恵器を経て猿投、古瀬戸、常滑などの六古窯の発展につながりますから、朝鮮人陶工たちははるか昔から日本で作陶していた事実はあります。

 ここでいう「唐津やき」とは、釉薬の掛けられた、人工施釉のやきものを指すことはいうまでもありません。釉薬が掛かるということは、お茶碗に使えるということを意味しています。考えてみれば、日本の古いやきもの-常滑・信楽・丹波・越前・備前-は、無釉のやきもの、即ち釉薬の掛からない、素焼きのやきものとしてスタートしています。ですから、釉薬のかかるやきものの方が少なかったと言うことになります。お茶碗は釉薬が掛からないと、茶筅が傷み、茶碗としては不向きなものとなります。釉薬がきちんと掛けられていますと、茶は非常に点てやすく、茶筅のすり切れを飲み込む危険性はなくなります。

 一番最初期の唐津やきはどの辺りで焼かれたのでしょうか?唐津市の南に岸岳という山があります。ここに一番古いとされる飯洞甕窯と帆柱窯、皿屋窯、道納屋という窯があります。さらに唐津市の左手に小十(こじろ)窯と右手に山瀬窯があり、これらが初期の唐津やきのふるさとです。なかでも人気の高い「斑唐津(まだらからつ)」を焼いた帆柱、山瀬の人気には高いものがあります。斑とは白く発色する釉薬を指しており、通常では「藁灰」を水に溶いて作品に塗った作品で、白濁釉を指します。この白濁釉は北朝鮮と中国の国境の境に位置している会寧というところで制作され、それが人気を博し、朝鮮半島経由で日本に伝えられたものと思われます。鉄釉に斑釉の、いわゆる「朝鮮唐津」がその代表です。

 また「山瀬窯」の斑唐津も非常に人気があります。斑釉はやや青白い美しさを帯びたコバルトのかすかな発色を見せ、そのほのかな美しさは古瀬戸の早期の作品にも見ることができます。これは推測ですが窯の火付けの段階で大量に藁が使われ、それが灰として肩に降りかかり、釉薬に交じり込んで変色したものと推測されます。六古窯の作品や古瀬戸の瓶子や水注にこの青白い色合いは多く見られ、鵜の斑(うのふ)と呼ばれ、その美しさは珍重されています。

 先に述べた会寧から、わら灰系釉薬が唐津に伝えられ斑唐津の成立につながり、今日の人気ある唐津焼を支える重要な作品の数々を生みました。

 岸岳系の唐津の典型が帆柱窯の作品で、この岸岳には唐津を領有していた波多氏の居城があり、往時を偲ばせますが、波多氏は秀吉の文禄の役の折りに、秀吉の怒りをかい、改易(取り潰し)になったと伝えられます。山城である岸岳をある意味で守ったのがこうした一連の窯であった可能性も否定できません。日夜やきものを焼いていた訳ですから、城としては不審者の侵入に対してある意味での防御の役割も考えられます。

 現在、飯洞甕窯跡は保護されて見学できます。その近辺では初期唐津の陶片なども落ちていて、往時の隆盛を物語ります。


唐津焼向付・山瀬窯酒盃(共に桃山時代から江戸時代初期)

唐津焼向付・山瀬窯酒盃 高台(共に桃山時代から江戸時代初期)

飯洞甕窯跡

中里太郎右衛門陶房に保存されている日本最古の連房式登窯

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