文化講座
古美術をみる眼2 「歌舞伎の祖 出雲の阿国の墓を訪ねる・ 浮世絵の誕生前夜」
歌舞伎の祖 出雲の阿国の墓を訪ねる・浮世絵の誕生を考える
前回の隠岐の島、伯耆の旅をしたときに、私は出雲大社に足を伸ばしました。なぜ出雲大社に行ってみたかったかというと、実は古代史の中で出雲大社の本殿は高さ50メートルの土台の上に作られていたといわれており、そのとてつもない当時の建築技術の高さに興味を持ったからでした。この目でその大神殿の模型を見たかったこと、日本最大級の注連縄(しめなわ)を見てみたかったことが訪ねた理由ですが、実はもう一つあります。出雲の阿国の墓を訪ねてみたかったことでした。
出雲の阿国は出雲大社の巫女であったとされており、その証として出雲大社のすぐ隣にお墓があるのでしょう。桃山時代に京都に出てきて勧進・歌舞伎踊りを始めたのが出雲の阿国といわれています。現在の京都四条川原そばに歌舞伎の南座があります。その南座の鴨川側に「出雲の阿国の歌舞伎発祥の地」という記念碑が立てられています。歌舞伎の祖ということになります。
伝承によれば、阿国は出雲国松江の鍛冶中村三右衛門の娘といい、出雲大社の巫女となり、文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判となったといわれています。
資料文献として有名な多聞院英俊たちの残した『多聞院日記』天正10年5月(1582年現在の6月)のところに「加賀国八歳十一歳の童」が春日大社において「ややこ踊り」を行ったという記事があります。それは「於若宮拜屋加賀國八歳十一歳ノヤヤコヲトリト云法樂在之カヽヲトリトモ云一段イタヰケニ面白云々各群集了」というもので、これを8歳の加賀、11歳の国という二人の名前と解釈し、逆算して阿国を1572年生まれとするのが通説化しています。
また確実な資料では『時慶卿記』に慶長5年7月1日条(1600年)に、京都近衛殿や御所で雲州(出雲)のクニと菊の2人が「ややこ踊り」を演じたという記録があり、ここでクニと名乗っていたことがわかります。
『時慶卿記』よりも遡るものとして次の記録があります。これらも阿国を指す可能性があります。『御湯殿の上日記』天正9年9月(1581年)によりますと、御所で「ややこ踊り」が演じられたとされています。また『言継卿記』天正15年2月(1588年)には出雲大社の巫女が京都で舞を踊ったことも記載されています。
「かぶく」とはかたぶく、すなはち傾く、放埒な格好や言葉遣い、身なりの派手さを売り物にしたことをあらわす言葉といわれます。婆娑羅(ばさら)とか伊達者という言葉にも似ています。戦国時代は戦場で活躍しても目立たないと恩賞にあずかれませんでした。そのためどこからでも目立つきらびやかな、派手な鎧や兜などがはやったのです。そうした風潮は戦国末期から元禄への経済的・文化的発展期に見られる風俗の歴史です。
同年5月には御所でも「かぶき踊り」を演じたもようです。阿国は四条河原などで勧進(寄付・寄進)興行を行ったようですが、阿国の踊りを念仏踊りと記した史料もあるので、最初は勧進踊りとしての宗教的な踊りだったと考えられます。
阿国一座が評判になるとこれを真似た芝居が遊女によって盛んに演じられるようになり、それが遊女歌舞伎となり、風俗を乱したとして1629年に幕府の取締の対象になりました。女歌舞伎を全面禁止しました。明治までの300年間、女優が存在しなかったのはこのためであり、女方の発達もそれが原因なのです。そこで女性がだめなら、若い男性を・・・ということになりいわゆる美男子による「若衆歌舞伎」が始まります。しかしこれも大名・旗本の男色の対象となり、承応元年1652年に弾圧を受けます。以後中年の男性ならということでいわゆる「野郎歌舞伎」になり現在に至ります。すなはち歌舞伎の歴史には常に風俗の問題を抱えていたことになります。それが後の「江島・生島事件」を生む歴史的背景になります。この「江島・生島事件」は浮世絵の歴史にも大きく影響を与え、非常に面白い事件ですので、浮世絵のお話の時にまた登場させましょう。
さて阿国の没年は慶長18年(1613年)、正保元年(1644年)、万治元年(1658年)など諸説あり、はっきりしません。二代目阿国がいたのではないかという説もあるくらいです。出雲に戻り尼になったという伝承もあり、出雲大社近くに阿国のものとされる墓があり、それを今回訪ねたわけです。
出雲の阿国の墓