文化講座
室町美学の頂点 足利義政と銀閣寺
今回は庭園の美についてお話いたします。日本には枯山水という独特の庭園があります。枯れた山水というと、驚く方もいらっしゃると思います。山水と言えば川とか湖の水が無ければ話にならないではないかと思われるでしょう。大自然の雄大さを自分の庭に持ち込もうとした試みがその背景にあります。しかし大自然を庭にそのまま持ち込むことは、広大すぎて不可能なことは言うまでもありません。そこで小さい世界に縮める、すなはち縮小する、ミニチュア化することがはじまります。水の代わりに白い砂が使われる。そのルーツは鎌倉時代から始まるとされる盆栽の歴史にあるでしょう。中国から盆栽が伝わり、次第に愛好者を増やしてゆきますが、そのコンパクト性はある意味で広大な自然を絵に描いた白黒の世界である水墨画にもたとえられるかも知れません。生け花、すなはち華道も自然の花を室内に持ち込むことにおいては同じ発想の流れにあるでしょう。
足利義満の時代のいわゆる「北山文化」の歴史的特徴としては、中国文化、とりわけ禅宗の影響を強く受けたことがあげられるでしょう。鎌倉時代から武士を中心に新しい宗教として信仰されてきた禅宗は、次第に文化や芸術の中に溶け込み、その担い手は武士から庶民、町人に広く浸透して行く事になったのです。
村田珠光、利休の茶の師である武野紹鴎などによる侘び茶の茶道の展開も禅宗の影響が大きく影を落としています。更に茶道の中に禅宗的な庭が取り込まれ、その簡潔さ、精神性、枯淡美を取り入れるなど、後の侘び茶道の方向性に極めて強い影響を与えたと考えられます。
金閣寺と銀閣寺
同じ室町時代に作られた金閣寺と銀閣寺には大きな意味、象徴性が隠されています。金と銀は、太陽と月、明暗、陰陽など、日本文化は常に2つの世界の対比、すなはち二元論的世界が基本になっており、金銀もそうした対比のひとつとされます。金はもともと宝であり、冨の象徴であり、精神的には極楽浄土の色彩でした。反面、銀は渋く、それでいて高貴な色彩をおび、いぶし銀という言葉に代表されるような、控えめな光沢を持っています。この二元論は大事です。豪奢に対する侘び、奢りに対する侘び、権力に対する侘び、これらは室町時代という時代性の賜物といえます。金を代表する建築物が金閣寺です。また銀を代表する建築物が銀閣寺です。ところが金閣寺には金が貼られて黄金色に輝いてますが、銀閣寺には銀は貼られていません。木造の書院造りです。昔、何故銀が貼られていないかということが問題になったとき、足利義政の時代は権力も落ちて、銀を貼る財力がなくなったからだとかの理由がまことしやかに伝えられましたが、銀閣には元々銀が貼られてないのです。それは何故かといいますと、銀閣は月、すなはち暗、陰を象徴する夜の寺院だからなのです。
銀閣寺に入りますと、銀閣の手前に白い盛り砂の「銀沙灘(ぎんさだん)」があります。そして銀閣と銀沙灘の間に向月台があります。この向月台の形は円錐型の上3/1を横に切り取った形をしています(写真)。そして銀閣の右前には池が広がっています。銀閣の正面には東山がひかえ、夕闇が迫るとそこから月が昇ります。実はそれからが銀閣の世界となるのです。
こうした月夜に足利義政は銀閣の二階に上り、庭を見下ろして立ちます。右下に実際の池が東山からのぼった月を映してキラキラ輝いています。左に目を転じると、月の光に照らされた銀沙灘があたかも大海のように光輝いています。その手前には円錐型の上面に月の光が反射して、架空満月を演出しています。すなはちこの眺めには、右手には実際の月と大海を思わせる池が月に輝いています。左には白い砂の海、すなはち架空の海と向月台の上にこれまた架空の月が反射して見えます。「実」と「虚」の対比世界がここ銀閣寺では巧妙に演出されているのです。まさに日本美術史上かつてない耽美の極みの世界が足利義政によってつくり出されたといってよいでしょう。
世界的な後期印象派の画家、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは妹のウイレミーンに宛てた手紙でこう述べています。「夜は昼より何倍も美しいのだよ」と。この銀閣の二階に立った義政は果してどのような思いでこの世界を眺めていたのでしょうか。
銀閣寺 手前から順に銀沙灘、向月台、銀閣