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シリーズ 骨董をもう少し深く楽しみましょう

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

一遍上人絵伝を歩く 備前福岡の市

 今回は踊り念仏で有名な鎌倉時代の時宗の開祖、一遍上人と念仏衆についてお話いたします。

 念仏とは「南無阿弥陀仏」を唱え、死後の世界を司る阿弥陀如来に救いを求めるものです。生物であれば、必ず死を迎えます。人間でも例外ではありません。生きとし生けるものはいつか必ず死を迎えます。誰でも肉親や知人友人など、身近な人たちの死を間近に見ることによって「死」を考えます。 肉体の消滅により、魂も消滅してしまうのだろうか?あるいは霊魂として残り、浮遊するのだろうか?仮に魂が浮遊するとすれば、死後の世界があるに違いない、そしてやはりそこにも永遠なる楽しい世界と苦の世界があるに違いない、現世が苦しみに満ちたものであればある程、あの世では楽しく過ごしたいと思うことは当然といえます。
 まして今と違い、医術のない奈良時代や平安時代のこと、病は死に直結していました。風邪をひいただけでも当時は死に、伝染病や感染症で何万人もが死んでいきました。考えてみれば麻酔薬の無い時代の盲腸などは悲惨で大変な苦痛の結果、死を迎えねばなりませんでした。まして女性の1/3は出産で亡くなったといいます。衛生観念もなく、麻酔や帝王切開もない時代、その死のすがたは冥く、恐ろしいものであったに違いありません。奈良時代や平安時代は祟りや怨霊の跋扈する迷信のはびこる暗闇の世界でもありました。病気とは「死」そのもであり、「魔」そのものだったのです。
 それ故に六字名号である「南無阿弥陀仏」をとなえれば阿弥陀仏に救われるとした空也から法然、親鸞、一遍の念仏は、現世では救われないと考えていた貧しき者たちをも絶望の淵から救ってくれる、ありがたい教えだったのです。

 いま現在の日本と奈良時代、平安時代の庶民にとって一番大きな違いは医療技術でしょう。現代の日本人はどれだけ幸せかわかりません。もともと漢方薬や東洋医学を誇り、GNPで日本を抜いて世界第二位になるという中国人ですら高額な対価を払って日本の最先端医療を受けに来るくらいですから、日本人はもっと精密検査や人間ドックをこまめに受け、自分の身体の管理をしっかりするべきです。早期発見が一番大切です。

 さて一遍に先立つ267年前に空也上人が亡くなりました。空也は念仏布教をした最初の僧として一遍に尊敬されています。空也につきましては、またに譲りますが京都の六波羅蜜寺にすばらしい鎌倉時代の空也像が残されており、私もしばしば訪れて拝観させていただきますが、これほど心に迫るお姿はありません。鎌倉時代の運慶の子である康勝の作といわれます。

 私は空也上人、親鸞上人や一遍上人が好きで、勉強してきました。それは宗教的というより、彼らの人間としての生き方、やさしさに共感するからなのです。

 一遍上人の事跡を訪ねて、昨年末に備前福岡を旅しました。一遍上人の宗教活動を考える上で極めて重要な位置にあるのが「一遍上人絵伝」です。この作品は現在国宝に指定され、その絵画的すばらしさだけではなく、その正確な表現、当時の人たちの生きている様子、風俗、美術上重要な表現などさまざまな点から非常に高く評価されています。私がこの絵巻物に注目したのは美術的記載からでした。それが備前福岡の市の場面なのです。著作に関する権利の関係で写真を掲載できなくて残念ですが、日本の「国宝」関係の美術書の中で、絵巻物をさがしていただき御覧いただければと思います。数ある日本の絵巻物の中で、この「一遍上人絵伝」は素晴らしい内容で、見ていて飽きません。

 特にこの備前福岡の市の場面は備前焼の成立という古陶磁器の歴史からも重要ですし、庶民の暮らしぶりを理解する上でもとても興味深い内容です。一遍の宗教的事跡を考える上でも重要な場面なのです。

 一遍上人は瀬戸内海の豪族、河野水軍に関係する生まれといわれます。今で言えば海賊となりましょうか。海の大名のようなものです。身体は頑丈で長身、後の長い遊行の体力は、こうした前身にも負うところがあるのでしょうか。俗世にあるときは妻と妾と、その間に娘がいました。そして聖戒という弟子がいましたが、それがどういう関係か不明なのですが、実の子とか弟、親類と様々ですが、一遍の本妻の愛人という説もあり、なかなか複雑な人間関係を持っていたことが伺えます。出家の原因には親類との諍いや、無実の人を殺めたことが原因であるとか、諸説ありますが、そうした複雑な人間関係を清算することもあったのではないかと思います。まさに彼は人間そのものの業の深さにどっぷりと浸かっていたといえます。

 「一遍上人絵伝」には桜咲く春の旅立ちが描かれていますが、修行の同行者が3人います。すべて女性で、1人は一遍の娘、その母、そして親類の女性。娘と過去の妾さんはもちろん出家しての同行です。一番の弟子の聖戒は桜井という場所で別れますが、遠くで一遍の一行を見送る元本妻さんに未練がありげです。顔は一遍たちを見送りますが、身体は彼女の方に向いてます。そのときの一遍はそのような俗事に構わず、ただひたすら前を向き歩を進めます。彼の決意の程が伺えます。

 親鸞も若き日にセックスの欲望に悩み、師である法然に相談して救われます。そんなに結婚したいなら、夫婦になって、共に修行に励みなさいと言われます。親鸞が法然を生涯の師として慕っているのは、そうした師の暖かさ、人間的魅力というものを尊敬していたからに違いありません。

 親鸞は愚禿親鸞と自分を蔑みますが、親鸞の魅力はその実直さにあります。当時出家した僧は結婚出来ないということになっていました。欲望を絶つことが人の手本たる僧のありかたであったと言えます。しかし信長の比叡山焼き討ちのときもそうですが、隠れて女性たちを囲う僧が沢山いたという事も事実です。それに比べれば親鸞の真面目さ、実直さはおかしいくらいです。そこに親鸞の魅力があります。極めて健康な男子は性欲が強くて当たり前、生物的にそう出来ているのですから仕方ありません。そうした欲望を捨て去る所に釈迦以来の修行が存在し、また手本である僧の存在価値があると考えられてきたのです。

 私は逆にそうした親鸞や一遍のように、凡夫であるがゆえの魅力に惹かれます。悩み、悔いある人生をもう一度自分流にやり直す、それは考えようによっては極めて現代的な「個」の発露です。他人の問題ではない、自分の問題として真摯にとらえる。20世紀の実存哲学を先取りした彼らの生き様に感動するのです。

 さて「一遍上人絵伝」に描かれる備前福岡の市の場面には重要な場面が二カ所描かれています。一遍がまさにある武士に切られそうになっている場面、それから売られている壺たちの色、すなはち焼き方です。

 一遍に対してまさに太刀を抜こうとしているのは、絵伝によれば吉備津神社の神主の息子で、彼の妻が留守中に一遍によって出家させられたと誤解して激怒して追いかけ、まさに一遍を切ろうと息まいているところです。そのあと絵巻物では直ぐ左手に一遍がその神主の息子の髪を下ろしている場面が描かれています。神主の息子は一遍に説教されて、時宗に帰依したのです。この備前での布教は大きな成果をもたらしたようで、そこでこうした出来事が描かれたのでしょう。一遍のそれまでのさまざまな経験、人間的魅力があればこその出来事です。

 もうひとつは壺の色です。これは多くの学者によって指摘されているところですが、ここに描かれている壺には黒い壺と赤みがかった壺があります。黒い壺は古墳時代から続く須恵器という焼き方で出来ており、赤みを帯びた壺は愛知の常滑に見られる新しい焼き方を表しています。難しく言うと、還元焔焼成から酸化焔焼成に変わったことを表しています。そこに新しい赤い備前焼きの成立を見ようとするものです。一遍上人絵伝の成立は1299年ですから、この前後に備前焼きは独自の赤に変色して、ここに現在に続く「備前焼」の成立を見た訳です。それは常滑との経済戦争に対抗したものと理解できます。 また備前福岡は刀剣の歴史でも欠かせない場所なのです。多くの武将に愛された名刀「備前福岡一文字」はここで作られました。ちなみに日露戦争の日本海海戦で旗艦三笠艦上の東郷平八郎が手にしていたのが明治天皇から拝領した福岡一文字吉房の名刀です。私は刀剣も好きですので、この福岡という場所は興味が尽きません。

 写真1枚目は鳥辺山にある「親鸞上人火葬場跡」の石碑。写真2枚目は鳥辺野一帯の墓群。
 昔は鳥辺野といわれた京の葬送の場・火葬場で、現在でも墓石がびっしり並んでいる。ひっそりと親鸞の火葬場もあり、一遍ゆかりの六条河原院にあった歓喜光寺や空也像のある六波羅蜜寺もこの鳥辺野の一帯といわれる。


京都東山、鳥辺野に立つ「親鸞上人火葬場跡」の石碑


京都東山、鳥辺野一帯に密集する墓

備前福岡の市跡に立つ案内 「一遍上人絵伝」の場面が見える。

備前福岡の市の跡

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