文化講座
仏教とエジプト美術
前回、前々回とエジプト美術との関わりにおいて日本の美術、とりわけ仏教との関係を取り上げてきました。
エジプトと日本の美術、宗教が深く関係していることは、今まであまり取り上げられることはありませんでした。
ギリシャ彫刻と飛鳥仏との関係であるとか、エンタシス(眼の錯覚を補正するため、並んだ柱の中央を少しふくらませている)との関係は有名ですが、エジプトとの関係は極めて少ないのではないでしょうか。
前にも述べたように、ナイル川は浄土思想における三途の川であるし、閻魔大王はエジプトのオシリス神であることは、ほぼ間違いありません。
またオシリス神は冥界を支配する神ですから、死後の世界を支配する阿弥陀如来とこれまた非常に近い関係にあるといえます。
また蓮の花を死者に手向ける習慣もエジプトから始まっています。
蓮は日本では仏教のシンボルであり、極楽をシンボライズする象徴とされています。
エジプトの蓮は香りも良く、精神の昂ぶりを抑える効果も大きいとされています。
また日本では泥のような汚いところから伸びて来て、水面で極楽のような美しい花を咲かせることから大切にされています。
また蓮は朝に美しく花開き、夕方には花を閉じる習性があり、それがあたかも人間の生と死、すなはち一生をシンボライズしているとも捉えられているようです。
そうした蓮の不思議が仏教にも取り込まれてきたと考えてもいいように思えます。
蓮の花を亡き王に捧げる供養者
エドフ神殿
エドフ神殿の柱に描かれた蓮弁
それから香です。香は蓮と同様に、死者に手向けられます。
極楽はいい香りに満ちたところであったようで、香は王家にとっても大事なものであったと考えられます。
それはあたかも聖武天皇の遺品を納めた「正倉院」に大切に保管されている、蘭奢待(らんじゃたい)という香木と同じようでもあります。
ツタンカーメン王の副葬品の中に、黄金の椅子があります。
この背もたれの部分に被葬者のツタンカーメン王とその后のアンケセナーメンが描かれています。
よく見ると、仲の良い二人は履き物を片方ずつ履いています。それほど二人は愛し合っていたと考えられます。
王は19歳ほどで亡くなったと言われますから、后であるアンケセナーメンの嘆きは大きかったに違いありません。
その二人の様子を見てみると、后はツタンカーメン王に香油を塗っています。
香油は貴族には欠かせないふくよかな香りであり、天国の香りであったのです。
こうした愛の姿を永遠に残すために、黄金の椅子作品のデザインが考えられ、制作されたのでしょう。
ツタンカーメン王の彫像
カルナック神殿
ミイラの思想も日本に伝来しています。
ミイラの考え方について簡単に述べてみましょう。
当時エジプトでは死後に魂と肉体は分離すると考えられ、いつか魂は肉体に戻り復活再生すると信じられてきました。
そのため死体は腐らないように防腐処理がなされ、永遠の保存を目指して葬送されたのです。
現在日本にもミイラはあります。
中でも有名なミイラは、奥州藤原氏4代のもので初代藤原清衡、2代基衡、3代秀衡、4代泰衡(頭部のみ)と山形県米沢市の梅唇尼のミイラが有名です。
これらは東北の寒く湿度の多い地方にもかかわらず、遺体のいくつかは大変良い状態で残っていたので、何らかの防腐処理がなされたと考えるのが妥当でしょう。
また本来のミイラの思想からミイラ化されたかどうかは分かりませんが、即身仏としての体がミイラ化された事例は多く、有名なものは湯殿山大日坊の真如海上人、注連寺の鉄海上人、本明寺の本明上人など17事例が報告されています。
弘法大師空海も即身成仏したとされていますから、空海も入れますと18事例あることになります。まだ即身仏は日本にはたくさんあるとされますが、このくらいでいいでしょう。
こうした藤原氏のミイラや即身成仏した遺体のミイラ化は、遠くエジプトのミイラの思想が影響していないとは言い切れません。
中国では漢時代の馬王堆遺跡から発掘された女性の遺体は、紀元前186年に死亡した、現在の湖南省長沙市あたりを治めていた長沙国の宰相利蒼の50歳の妻、辛追と判明しました
夏は40度を超える暑さの大地で、2200年近く経過しているにもかかわらず、遺体は防腐処理が施され、未だ弾力を失っていないし、引っ張っても髪の毛は抜けないという驚異的な事実が報告されています。
エジプトも暑い国ですし、遺体の保存は極めて難しいのですが、現在にも多くのミイラが残っている事実がその驚異的な技術を証明しています。
仏教との関連で言えば、エジプトの「死者の書」はお経に該当するであろうし、また多くの遺物に共通の類似点を見いだすことができます。
それらの詳細はまた機会をみてお話する予定です。