愛知県共済

インターネット公開文化講座

文化講座

インターネット公開文化講座

シリーズ 骨董をもう少し深く楽しみましょう

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

後鳥羽上皇と刀剣 菊御作の誕生

 私は18歳で刀剣の美に魅せられて、美術の勉強をするようになったことが古美術・骨董との出会いであったことは前にも書かせていただきました。またさらに刀剣や甲冑との出会いは小学校4年のときに見た黒沢明監督の名画「蜘蛛巣城」に根があることも書かせていただきました。
 このように、刀や甲冑武具のどこに美しさがあるかといいますと、刀には切れて、曲がらず、折れないという用途にかなった強さと、それに合いまった合理的美しさがあり、焼きを入れる急冷の際に生じる鉄の変化の妙とでも言うべき独特の優れた美しさ、いわゆる「刃中の働き」があります。それは武人たちを虜にし、文字通り研ぎ澄まされた刀剣の美術的価値を高めている、まさに刀の美そのもの魅力なのです。日本人のすごさは、武器である刀を美術品に格上げしてしまう感性の高さ、良さにあります。全ての、ありとあらゆる品物を美術品に仕上げてしまう能力こそ、外国にはない我が日本民族固有のすばらしい特性といえます。

 日本の武具は、西洋のロボットを思わせるような合理的甲冑とは違った、いわば隙だらけの不合理性の美を我々に見せています。そして更にそうした美の随所に見せる彫金の細工のすばらしさ、センスの良さに日本人の独自の繊細さが光っています。昨年1月にニューヨークのメトロポリタン美術館で、サムライ・アート展が催され、刀剣を中心に、甲冑や刀装具が展示され、大変盛況であったと聞いています。外国人を驚かす技術とセンスの良さは、浮世絵でも刀でも、根付け印籠に至るあらゆる領域にわたっており、日本全体の芸術的レベルの高さを物語っていると思います。

 さて今回は日本の刀剣の歴史上の金字塔とも言うべき、菊御作、すなはち後鳥羽上皇(1180年から1239年)ご自身が刀を打たれ、現在も高く評価され、中には国宝になっている名刀についてお話いたします。

 後鳥羽上皇は言うまでもなく古い日本の史書による第82代の天皇として、1183年から1198年に在位されました。歴史的にみれば平氏の没落によって、父である後白河法皇によって帝位につかれ、その後鎌倉幕府の混乱期に乗じて天皇の権力を増大させようと承久の乱(1221年)を起こしました。しかし北条政子は御家人たちの結束を訴え、大軍をもってこの危機にあたり、戦に不慣れな上皇軍を完膚無きまで破り、結果として後鳥羽上皇は隠岐の島に配流となりました。その後、島での徒然に好きな和歌を詠み、かつ刀剣を制作するなど、多方面の才能を発揮されました。単に刀剣を制作するというのではなく、鑑識眼の高かった上皇は一級の作品を目指され、各地から名工を召して制作の助手にあたらせました。全国で有数の刀剣の産地である備前を筆頭に、備中、粟田口(京都)などから一級の名工が2月毎に呼ばれ、院の作刀を補佐したといわれます。それを一般には「御番鍛冶」といってます。毎月、お気に入りの刀工を召して、制作の相方をさせたのです。推測するに刀剣の制作はご上皇ご自身の気力を保持、向上させる原動力となったのでありましょう。しかし長く厳しい自然環境、特に冬の日本海のただ中にある隠岐の島での生活と在島18年という長い年月、京都帰還の望みも絶え、精神的、肉体的な衰えからついに島で59歳(60歳という説もあり)で薨去されました。英邁な上皇であればこそ、年月の経過とともに次第に失せてゆく京都への帰還の可能性と、それに伴うご悲嘆はますます大きなもの、絶望へと変化してゆき、そのことが上皇のお力をむしばみ、一種の諦めへと向かわしめ、それがさらにご加齢による体力の減退に拍車をかけたことは想像に難くありません。この島にいると、そうした上皇の無念さがひしひしと伝わってきます。

 さて私はかつて博物館での鑑定会で後鳥羽上皇の作られた太刀を実際に手にとって見せていただいたことがありました。もう800年以上前の太刀ですから、それなりに傷みもありますが、時間が経過している割には健全で、十分鑑賞できるものであり、その気品ある姿形はすばらしく、深くそして華やかな刃文であった記憶があります。
 もうどれくらい前からかはっきりわかりませんが、かなり若いころから隠岐の島に行って、上皇の住まわれていた跡、すなはち御所跡や刀を打たれた遺跡を訪ねてみたいと考えていました。それがやっと昨年かなえられたのでした。案内役を海士町の観光課の草間さんがかって出てくれましたので、とても助かりました。
 御陵墓の前には「後鳥羽院資料館」があり、かなりの資料を得ることができました。海士町海士の北分には遺跡があり、そこが目指す鍛冶場跡である可能性が高いので、そこを訪ねることにしました。レンタカーでやっと訪ね当てた場所には、古い祠と洞穴がありました。その場所は別名「鍛治屋敷」と呼ばれていたらしく、伝承を隣に住む古老から伺うと、御番鍛冶の1人、一文字助宗を名乗った鍛冶の住まいであったと伝えられているそうです。その祠には鍛刀に欠かせない「鞴(ふいご)」が納められていたそうです。一文字助宗は備前鍛冶の名刀工として有名で、後鳥羽院の御番鍛冶を務めた刀鍛冶です。また裏の小山の崖には、鎌倉時代の「やぐら」を思わせる古い洞穴が穿たれているのを発見しました。そこは奥行き1.5メートル程度の穴で、推測するに玉鋼(たまはがね・刀の原料)やもろもろの道具類を収納した倉庫の用をなした洞穴であると考えられます。これは今まで取り上げられることのなかった新たな発見でした。このように実際の場所に立つと新たな重要な発見もあり、歴史や美術品に思いを馳せることができます。とてもたのしい一時をもつことができるとともに、更なる興味へと駆られるようになります。ちなみに後鳥羽院は自分の刀に銘を入れずに16葉の菊文(天皇家)を彫ったので、院の作られた刀を「菊御作」と名付けているのです。


鎌倉時代の「やぐら」に共通する「洞窟」
物置に使われていたのだろうか。


後鳥羽上皇火葬墓
ここで荼毘にふされ、遺骨は京都大原に移されたが、
火葬墓は後に整備され現在に至っている。


近年まで「鞴(ふいご)」が納められていたという祠

シリーズ 骨董をもう少し深く楽しみましょう
このページの一番上へ