文化講座
谷川徹三と茶(Ⅱ)
前述の「日本人のこころ」に次のようだ。
「茶の湯は今日いろいろ面倒な作法を持っております。その作法は一定の精神のあらはれです。しかしその作法末節に従ったものは却ってその精神を失うことになる」
「茶の湯の真の精神は、日常のありふれた器物を持って、まごころを持って客をもてなすところにあります。静かに心をひらいて主客が語り合うためにああいふ茶室と茶庭との雰囲気が必要であったでせうが、それも本来は決して贅沢なものでありませんでした」
「茶の湯の本質もどこまでも清貧と謙虚とにあります」「茶の湯の真の精神がまごころを持って客をもてなすこと・・その気持を自分一人になったときにも失わない・・」
「この精神が真に茶の湯の精神ならば、我々はもちろんこれを現代に生かすことが出来ます」
「必ずしも茶の湯という形式をとらないでもこれを生かす・・」
「普遍性に通じていない特殊性を私は重んじません」
「私達はさういう特殊性を形式としてのみ沢山保存してをります」
「私達の間でさへ既に本来の意味を失っております」。
こうした状況に外国人のみならず日本人でさへ「日本を理解するよりもむしろ誤解されることの方が多い」「特殊性は特殊性として日常に事柄の真実を全面的には語りません」。それ故に「その背後にある普遍的なものにまで掘り下げ」なければならない。
茶の湯は人と人とのコミュニケーションの在り方を示す洗練された様式だ。しかし、作法末節を重んじることを優先すると形式に囚われてしまう。様式化されていく過程にあった大切な精神は忘れられる。我が国では茶の湯のみならずこうした現実は大変多い。
日本文化や習俗性においてのみならず、外国のものを導入するにあっても同様の傾向にある。 例えば、医療でインフォームドコンセントと言っても、唱えている医師ですらその背後にある患者本人に対する精神を理解していないことが多い。
家族が反対すれば患者に「告知」しないでは"当世のハヤリに乗るゴッコ"と同じ様なものだ。徹三が言うような「特殊性の背後にある普遍性」にもっと目を配るようになれば日本はもっと良くなる。
茶の湯は日常茶飯にその背後を学ぶに最適だ。