文化講座
わび・さびの茶の湯文化−その3
平安時代の僧・永忠、嵯峨天皇を中心とした中国唐代の陸羽様式による喫茶は、一旦は歴史の表舞台からは姿を消したのです。
そして、次に登場したのは1191年で、臨済僧・栄西の帰国によって臨済禅とともに抹茶法がもたらされたのです。
中国宋代の喫茶は、散茶(葉茶)の抹茶法に加えて、片茶としての固形茶も飲まれていました。
栄西の「喫茶養生記」は、中国にあっての陸羽の「茶経」に於ける如く、我が国の茶書の元祖と言えます。
「喫茶養生記」は、上巻は茶について記したものですが、下巻では、あまり知られていませんが、桑について書かれているのです。
当時、茶とともに桑にも注目があったと判ります。
長寿の薬効性ある健康飲料として、中国では茶と桑が用いられていたことを示すものと推察できます。
今日では、再び、桑にも関心がもたれている事実を思うと興味深いことです。
鎌倉幕府の三代将軍、実朝は歌を藤原定家を師として学び、斬新な歌風を示し、「金槐集」を著す程の歌人でした。
しかし、政治的には悩み多く、深酒に浸ることが多かったのです。
栄西は当時、新興宗教の禅宗を広めるべく、新しい勢力の鎌倉に期待し、1214年に下り、将軍実朝に、その著「喫茶養生記」進呈とともに、抹茶法による茶一盞を飲んでもらったのです。
恐らく、二日酔いの頭痛に苦しんでいた実朝は、今日的な解釈をすれば、カフェインによる鎮痛作用と利尿作用による効用によって改善されたと推察出来ます。
茶と薬用、健康への期待は、禅院での茶礼、その後の茶の湯文化の発展へとつながったのです。
平清盛時代から宋や明との貿易が、今日で言う民間貿易としても盛んとなって、多くの「唐物」や文化が輸入されるようになったのです。
禅院での茶礼、門前での民衆の飲茶に加えて、武将達も収集した唐物道具や書画を見せ合うために、主人のプライベート客間である「会所」での喫茶・茶の湯を楽しみ、その後の抹茶法、茶の湯文化が発展したのです。