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茶の湯文化は日本のグローカル文化

信天翁(アホウドリ)喫茶主
医学博士 山中 直樹(宗直)

健康で文化的な日常茶飯の生活 10

心の絆・・8

信天流喫茶の祖・山中信天翁は文政五年(1822年)に愛知県碧南市東浦に生まれました。

安政元年(1854年)に我が国の近代医学の源流と言える大阪の緒方洪庵の適塾に学んでいた憂国の思いが強かった弟が急逝した故に、弟の意思を継いで京都に上り、勤皇の志士や公卿と交わり、日本の行くべき道に努力をしていました。

安政の大獄に始まる新撰組の嫌疑を修学院村に移り、風流韻事に託して避けることが出来たのです。

鳥羽伏見の戦い(1868年)では、食料や軍事費の調達に奔走しました。

現代でもお金集めは大変なのに、多くの人達が日和見状態で密告される可能性がありながら、極めて危険な任に命を掛けたのです。

王政復古後、明治天皇の東京遷都の行幸で御用掛を務め、その後、宮城県知事を任ぜられたが、前任者がいた事から、辞任を申し出てもお預けになったのですが、明治三年の岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、大隈重信、伊藤博文に信天翁も参加して御前会議の席で聴許されました。

その後、明治十年には京都嵯峨の嵐山に隠棲しました。

新政府が樹立されて群雄が競って顕官に群がるを快く思わなかったのです。

また、憎しみは憎しみを喚び、戦いは戦いを喚ぶ連鎖によっては平和は得られないとの思いに到達したのだと思います。

平和な文芸や茶華道に過ごしながら、純芸術家ではなく儒学に基づく経世済民の文人となりました。

1886年(明治十八年)に64才で亡くなりましたが、その意思は1903年に岡倉天心の「The Book of Tea、茶の本」に引き継がれ、平和な文芸や芸術にしかるべき尊敬が払われるまで、野蛮国に甘んじようと訴えました。

そして、1999年になって、21世紀の預言者ジャック・アタリによって、日本のもてなし文化に博愛的文明価値を認められたのです(「反グローバリズム」彩流社)。

我が国の平和主義は憲法九条によって、武力、戦力を否定した国として、平和を求める伝統となっています。


山中信天翁、岡倉天心の意思を第一として、我が信天流喫茶は直心・赤心の平和な茶の道による人との心の絆・連帯を至上とします。

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