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茶の湯文化は日本のグローカル文化

信天翁(アホウドリ)喫茶主
医学博士 山中 直樹(宗直)

わび・さびの茶の湯文化−その2

喫茶が生活総合文化として発展を始めたのは、既に、陸羽(唐代760年頃)に著された喫茶史上の名著「茶経」以来なのです。
既に、我が国の喫茶文化・茶の湯につながる世界最初の文化的茶の総合書であり、茶の持つ精神性に言及もしているのです。

陸羽の時代は、団茶を粉末にした茶葉の出し汁を飲む様式だったのですが、「茶経」は、茶の歴史、健康性、茶の製法、茶の点て方、点茶用具、茶の飲み方や様式などに言及しているのです。
その後の喫茶の発展を洞察しています。

「茶は南方の嘉木なり」(「茶者南方之嘉木也」)と「茶の源」から始まり、我が国での喫茶、茶の湯に与えた影響の原点と言えます。
喫茶が、既に、茶道具、茶の点て方、飲み方、精神性を含めた人の生き方文化としての意味を主張しています。

「茶経」が書かれた10年後の770年に入唐した僧・永忠は、30年に及ぶ在唐の後、805年に最澄とともに帰国した時に喫茶文化を伝えたのです。
そして、814年には、中国文化を好み、楽しんだ嵯峨天皇が茶を喫したとあり、空海は「茶湯」の文字を資料に残しています。
815年には、永忠が梵釈寺で嵯峨天皇に献茶を行い、九州のみならず、畿内に茶木が植えられたことを伝えています。
つまり、当時、茶木は、既に、国内各地に植えられ、広まっていたことを示しているのだと思います。

遣唐使が廃止され(894年)、栄西によって、1191年に抹茶法が伝えられるまで、陸羽式の団茶法での我が国の喫茶文化は、一旦は、歴史の表からは消えました。
しかし、一定の作法を持って「茶湯」が供された当時の「引き茶」は、我が国の茶会の原型とも言えるのです。
また、平安期の喫茶は漢詩集に記載されて今日に伝わっています。

菅原道真は、「茗葉の番湯をもって、酒を飲むを免ず」、「煩懣、胸腸に結ばる、起きて茶一盞を飲む、飲み了りて消磨せず」とあります。
茶が薬用と同時に、仙境や草庵で、詩歌管絃とともに、喫茶が行われていることを示すものとなっていた様子がうかがわれます。

茶の湯文化は日本のグローカル文化
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