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茶の湯文化は日本のグローカル文化

信天翁(アホウドリ)喫茶主
医学博士 山中 直樹(宗直)

わび・さびの茶の湯文化 その10

 前回取り上げました村田珠光のわび・さびの茶の湯の継承者となった宗珠は、今日、話題となる、「わびた山居の体」、「市中の隠」、つまり、市中の 山居の趣があった午松庵で、「冷え枯れ(冷枯)」、「冷えやせ(冷痩)」た数寄の茶の湯の確立と発展の中心・代表者となっていたのです。
 また、禅宗との関係が深かったことを伝えています。

 鷲尾隆康(1485~1533年)による「二水記」には、宗珠は、当時の数寄の張本也として紹介されているのです。
 「山居之躰尤有感」は、「わびた山居の雰囲気が、わびの境地を感じさせる」となり、「誠可謂市中隠」は、「誠に市中の隠、山居と謂うべし」となります。

 また、茶禅一味(茶味同禅味)を最初に説いた禅僧・大休宗休(1468~1549年)は、その語録「見桃録」で、宗珠について、当時、わびの茶の湯の新風を吹き込んだ確立者としての評価を記しているのです。
 中国唐代の陸羽による「茶経」を伝え、宋代の龍団茶の創始者といわれる丁晋公や蔡襄に当たるような「わび茶の吹き醒ます桃花扇底の新風(吹醒桃花扇底図)」と礼賛しています。

 村田宗珠を中心とする下京茶の湯と伝わる午松庵で、四畳半や六畳敷の小間での茶の湯の様式、集いは、まさに、今日に伝わるわび・さびの茶の湯の創始期にあっての市中の山居たる草庵風の茶の湯の元祖と言えます。
 村田珠光による仏教、能や連歌の影響を受けた精神性に裏付けられた主客同坐のわび・さびの茶の湯は、その後嗣・宗珠によって継承、発展したとなります。

 イエズス会教師のジョアン・ロドリゲスは1610年にマカオに追放された後に、「日本教会史」(岩波書店)を記しました。
 江戸初期までの当時の茶の湯について、そのわび数寄として解説をしています。
 外国人の目による「市中の山居」(xichu no sankio)として、わび数寄茶の湯の様子を詳しく知ることが出来ます。
 茶道家元制が発生する頃の茶の湯を示す「南方録」(1690年)前の外国人の伝える茶の湯と言えるのです。

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