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茶の湯文化は日本のグローカル文化

信天翁(アホウドリ)喫茶主
医学博士 山中 直樹(宗直)

わび・さびの茶の湯文化 その11

 わび・さびの茶の湯は既に取り上げました開祖・村田珠光による、古市澄胤に宛てた文にある「和漢之界をまきらかす」、「冷え枯れる」の「こころ」の大切さを指摘したことに始まると言えます。
 その「こころ」は、継承者・村田宗珠によって「市中の隠」での茶の湯の発展となったのです。
 珠光の弟子の内で、京都粟田口の隠者・粟田口善法は、利休の弟子・山上宗二による「山上宗二記」に、胸中の奇麗なる者として、生涯を燗鍋一つで茶を飲み、食事を楽しんだと次のように記されています。
 「カンナベ一ツニテ茶湯ヲスル、一世ノ間食ヲモ身一楽ム、胸ノキレイナル者トテ珠光褒美候」。
 珠光は、「和漢の界を紛らかす」ことの大切さを創生してはいますが、基本的には唐物を中心としながらも、連歌・和歌での「枯かじけて寒かれ」と世阿弥の「離見の見」による「秘すれば花」の美意識と精神を背景に、遊芸性中心だった茶の湯に深い精神性を和物の美とともに取り込んだのです。
 つまり、「わび・さび」の風情を「わびた山居の体」、「市中の隠」たる市中の山居での「主客同坐」といわれる、客前での点茶をする茶の湯が始まったと考えられています。
 会所、書院での点茶は、主客同坐ではなかったのです。
 珠光の弟子としては、「山上宗二記」には、宗珠の他に、鳥居引拙、十四屋宗伍、藤田宗理、竹蔵屋紹滴の面々を取り上げています。
 続く「わび・さびの茶の湯」の発展、創生に寄与したのは武野紹鷗に引き継がれたと言えます。
 武野紹鷗については、次回からとしますが、連歌、和歌の思想や新しい茶道具を工夫し、取り入れたとは言え、唐物珍重の茶の湯は続いたのです。
 そうした中で、その生涯は不明なことが多い隠者で寂庵と号した粟田口善法は、村田珠光の弟子とは言え、師匠のみならず、武野紹鷗、千利休を越えていた境地の日常茶飯の茶の湯の創生者と私はあこがれます。
 今日に続く茶道ゴッコ的な唐物や名物品、その他ニセ物を含めた"権威"物を有難がる体質は、日常茶飯の茶の湯とは解離した遊芸性に基づいた"伝統""文化"状態にあると言えます。

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