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茶の湯文化は日本のグローカル文化

信天翁(アホウドリ)喫茶主
医学博士 山中 直樹(宗直)

わび・さびの茶の湯文化−その4

わび・さびの喫茶・茶の湯は、禅院での茶礼、門前の茶売り・一服一銭と呼ばれる茶売人による民衆間の飲茶に加えて、会所の茶と言われる武将や豪商達による茶の湯・喫茶が相互に影響しながら、総合化された日常生活文化だと言えます。
その中心となったのは、会所の喫茶・茶の湯なのです。

会所の茶は鎌倉末期から南北朝にかけてが、初期であり、南北朝統一後から足利六代将軍の時代までが中期となり、後期は足利八代将軍義政の時期に分類できます。

初期の会所の喫茶・茶の湯の中心人物は、足利初代の尊氏と佐々木道譽を挙げることが出来ます。
 言ってみれば、佐々木道譽に代表されるようなバサラ的な人達を中心にした喫茶・茶の湯と名付けたいと思います。
 舶来品収集趣味による唐物を並べて貴族達が愉しんだ花合わせ、貝合わせ、絵合わせなどに加えて、歌合せ、連歌会、能などを楽しみながら、その一環として、闘茶、四種十服勝負など飲茶勝負が茶合わせとして、盛んに催されたのです。
 茶合わせでは、唐物を贈物、賞品として賭けたりして、酒宴とともに遊興的趣向の茶寄合いだったのです。

足利尊氏が、武士の法律の元祖たる「建武式目」(1336年)において、「群飲侠遊」を制せられるべきとして、連歌の会と共に禁止する程だったのです。
 密談的、社会・政治性も問題だったのです。

一方で、単なる茶合わせとしての遊び、喫茶趣味を越えた喫茶法が禅院の茶礼を取り入れたような様式や精神的な一面も内包して始まっています。
 夢窓疎石は、足利尊氏の弟、直義との問答法話を基とした「夢中問答」集に、喫茶・茶礼の在り様を説いています。

夢窓疎石は、西芳寺など、造園家としてもよく知られていますが、当時、既に、和漢兼帯、浄・禅兼帯による和風化した建築、静かな風流性ある文化の必要性を求めています。
 茶の湯の開山と言われるように、喫茶法にあっても和風化を指導しているのです。
 義政時代の応仁の乱の戦中には、村田珠光に始まるといわれる「和漢の界の紛らかし」によるわびの茶の湯に影響するのです。

茶の湯文化は日本のグローカル文化
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