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茶の湯文化は日本のグローカル文化

信天翁(アホウドリ)喫茶主
医学博士 山中 直樹(宗直)

わび・さびの茶の湯文化 その12

 村田珠光に続いた「わび・さびの茶の湯」の発展・創生は、武具用の皮革業を営む堺の商人・武野紹鷗だと言えます。

和歌・連歌の境地・世界を茶の湯に本格的な導入を行いました。
掛物として、墨蹟中心から、藤原定家の和歌の色紙を導入して茶会に掛けています。
また、和物の志野茶碗を用いたり、道具の工夫を積極的に行ったのです。
竹の茶杓や蓋置きの発案、土風炉、木地の曲げ物として水指、水覆の創案など、その代表です。
茶道具の置く位置や寸法に関する規則と言われる陰陽曲尺割(カネワリ)の創始者は武野紹鷗なのです。
茶の湯者としては、これからといえる54才で亡くなってしまったのが残念です。

武野紹鷗は同じく堺の商人で魚屋を営んでいた千宗易(利休)を弟子としていたのです。
急死した武野紹鷗は、利休が秀吉に命を奪われたように、信長の命に従わず、頓死させられたとも伝わりますが、歴史的事実としては、信長とは接点はなかったといえます。
武野紹鷗を継いだのは武野宗瓦で、信長、秀吉による戦国平定期を経て、織田有楽や尾張名古屋の徳川義直に仕えて茶匠となっていました。
「武野家系図」では最後は、徳川義直に召出され、子孫は代々、名古屋在住なのです。
それ故に、紹鷗の茶の湯は、あまり知られていませんが、名古屋と深い関係にあることになります。

現在、織田有楽の子孫が名古屋在住であることを思えば、名古屋は、わび・さびの茶の湯の歴史と深い関係があるのです。 名物蒐集・「名物狩り」を行い、「御茶湯御政道」と言われるように「天下布武」に利用した織田信長、引き継いだ豊臣秀吉は、千利休とともに茶数寄で、北野大茶会など、今日のイベント的茶の湯を演出したのです。
茶の湯発展の歴史上の人物として、名古屋や東海地区生まれや移住者は多数に昇ると判ります。

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