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茶の湯文化は日本のグローカル文化

信天翁(アホウドリ)喫茶主
医学博士 山中 直樹(宗直)

わび・さびの茶の湯文化-その9

 村田珠光の跡目となったのは村田宗珠ですが、下京茶の湯といわれて、下京で宗珠を中心に行われていた珠光の草庵式茶の湯の様子を知ることが出来ます。

 連歌師宗長(1448~1532)の晩年の日記「宗長日記」から、茶の湯が室町将軍や禅院中心から町衆の集いに広まっていたと知ることが出来ます。
 また、茶の湯が早期から連歌と深い関係にあったことが判ります。
 宗長日記に、次のような茶の湯の様子が書かれています。
 「下京茶湯とて。此比数奇などといひて。四畳半六畳鋪。をのをの興行。宗珠さし入、門に大なる松有杉あり。垣のうち清く。蔦落葉五葉六葉いろこきを見て。
 今朝や夜の嵐をひろふはつ紅葉
 此発句かならず興行などあらましせし也」
 連歌師宗長が宗珠の茶の湯の集いに参加した時の日記です。

 「茶湯」、「数奇」、「四畳半敷六畳鋪」の言葉が登場しています。
 茶湯は草庵風の茶の湯を示し、数奇は足利義政を中心とする東山文化様式に対する草庵風の新しい茶の湯を意味します。
 書院ではなく、四畳半敷や六畳敷の小間の茶室が建てられていたのです。
 また、大きな松や杉の木が植えられて、垣根の内は清浄にされていたとあります。
 当時の草庵風の茶湯の場は、会所や書院様式を離れて、既に、後の草庵茶室様式が登場しているとわかります。
 宗珠の下京屋敷は京都四条にあり、清浄な「市中の山里」、「市中の山居」の界があったと言えます。
 数奇の言葉は、明治以後の数寄とは異なった意味を内包していると言えます。
 数奇と言われるためには、創案、創造性が発揮されていなければならないのです。
 骨董品や名品を金力にまかせて取り合ったり、習欲的な俗人が茶室に集まって自慢しあうのは慎ましい草庵の茶湯創生期の数奇とは意味を異にしますから、区別する必要があります。

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