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インターネット公開文化講座

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知って得するお茶ワールド

信天翁(アホウドリ)喫茶主
医学博士 山中 直樹(宗直)

侘・寂の茶(1)

21世紀を迎えて、侘・寂の茶の湯は我が国の独自性ある茶文化として自信を持つことが出来るものだ。今日では茶の湯と言えば、侘・寂を思い浮かべる位ではないか。しかし、侘・寂文化について言葉で説明出来る人は多くないのが現実。そこで、今回から侘・寂の茶文化の発生過程から考えていく。

 15世紀後半から我が国の茶文化は大きな転換を遂げ始める。時は国内が応仁の乱に始まる騒乱、戦乱の時代であった。侘の喫茶はそうした時期に萌芽した。

 しかし、既に紹介したように平安時代の喫茶の風は、唐文化趣味、薬効作用に加えて、仙境にあっての詩に詠われている。当時から、精神性、脱俗性、隠遁性を内包していたことになる。10世紀後半の儒教学者・慶滋保胤(よししげのやすたね)は「心、山中に住すが如し」と今日で言う京都の人里離れたところに池亭(ちてい)と呼ぶ世俗の空間から離れた家を築いていた。鎌倉時代となれば、「ゆく川の流れは絶えずして・・」の「方丈記」で有名な鴨長明は京都日野に方丈を結んで過ごしていた。後にロドリゲスが「日本教会史」で言う「市中の山居」と言われる草庵を形成することになっていった。つまり、草庵の茶室となったのだ。

 鎌倉末期の喫茶には二つの流があった。僧侶を中心とした健康、修行的なものと貴族、武士を中心とした社交、遊興、趣味的なものであった。
加えて、庶民の間では門前での茶売り、一服一銭の喫茶が起こっていた。

 室町期になると佐々木道誉、足利義教、足利義政が有名。喫茶の場所として、書院を邸内に造り、会所の茶として楽しんだ。遊興性の代表、「闘茶」が行われたことは以前に紹介した。

 応仁の乱の時代には奈良の土豪、古市一族が「淋汗茶湯」と呼ばれる茶会を楽しんだ。一族は侘・寂の茶の湯に重要な役割を果たしたグループと言える。
淋汗茶湯も、前述の闘茶が持つ遊興性と共通するものだ。「淋汗茶湯(りんかんちゃのゆ)」とは一族や仲間が集まって風呂に入り汗を流し、茶を飲んで楽しみ、酒宴を行って騒ぐのだ。その代表人物が一族の長・古市澄胤(ふるいちちょういん)だった。

 澄胤はただ単なる土豪だけではなかった。和歌、猿楽などにも通じた文化人であった。彼は侘茶の祖と言われる村田珠光と侘茶の創世に寄与した重要な人物なのだ。

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