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知って得するお茶ワールド

信天翁(アホウドリ)喫茶主
医学博士 山中 直樹(宗直)

お茶の飲み方(5)

我が国に喫茶の記録が公式な記録として現れるのは「日本後記」と言われる。
平安時代(815年)、嵯峨天皇が近江に行幸した折、梵釈寺で永忠が煎じて献じたと言う。
嵯峨天皇は空海、橘逸勢とともに三筆の一人と言われる程の能書家で有名だ。
永忠は奈良時代に遣唐使として唐に渡り、三十年に及ぶ滞在をして、平安初期(805年)に最澄と共に茶の実を持ち帰った。
そして、滋賀県大津市に日本最古の日吉茶園を開いたと伝えられる。

茶の煎じ方は、唐代の陸羽による茶書「茶経」にあるような茶葉を固めて作る団茶を用いて茶を煎じたと思われる。
当時、団茶に加工することによって保存、持ち運びが可能となったのだ。
その団茶を砕いて、釜湯で煎じた。「茶経」によれば、釜で二沸の時、団茶から作った粉の茶を量って、釜の中心に落とす。
次に竹筴でかき廻して茶碗にすくって飲んでいたのだ。
茶筅はまだ使われていない。日本にもその方法が伝わったのだろう。
当時の我が国は中国文化の導入が全盛の時代。
唐文化の流行として喫茶が宮廷を中心とする上流社会で楽しまれていた。
平安期には漢詩集の中で喫茶の様を詠ったものがある。
太宰府に流された学問の神・菅原道真も茶を喫して「茗葉の香湯をもって、酒を飲むを免ず」、「煩懣、胸腸に結る、起きて茶一盞を飲む、飲み了りて消磨せず」(「チャート茶道史」谷端昭夫、淡交社)と詠っている。
流罪となり憤懣やるかたない菅原道真が、酒の代わりにお茶を飲んだり、憤りを癒やすために茶一盞を飲んでも消えない苦悩が伝わってくる。
紫式部による源氏物語時代の権力者、藤原道長は病に茶を喫したとある。
平安時代の喫茶は宮廷文化であった。
茶の薬用としての効用性に加えて、当時、既に仙境に遊んで漢詩を吟じるような精神的な面や隠遁性も喫茶が持っていたことが判る。
喫茶が内包していた脱俗感が既に紹介した「日本教会史」を書いたロドリゲスの言う「市中の山居」である草庵での点茶法、わび茶へ創生していく必然性を持っていたと思える。
唐代の中国では団茶が主流であったが、今日に通じる葉茶も出現していた。
また、喫茶は寺院や上流社会のみならず、一般の人々にも普及していたようだ。
我が国では遣唐使の廃止に伴って、一旦は喫茶も衰微する。
栄西による抹茶法の導入を待つことになる。

竹筴(チッキョウ) 煩懣(ハンマン)

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